第3話

「ああ! サツジンキだ!」

 鈴を鳴らすような子どもの声が、路地に響き渡った。

 振り返ると、通学中の子どもの列があって、背の低い男の子が、僕の方を嬉々とした様子で指していた。

「サツジンキだ! サツジンキだ!」

「…ちょっと、やめなよ」

 まるで、カブトムシを見つけた時のように言った男の子を、隣の女の子が咎めた。

「殺されちゃうかもしれないでしょう?」

「だいじょうぶだよ! ぼくがまもってあげるから!」

 男の子が胸を叩いて言う。

 その様子を見て、僕は自然と笑みを洩らした。

 ヒーロー願望…いや、好きな女の子に振り向いてもらいたくて、自分を強く見せるなんて、微笑ましいことじゃないか。どれ、お膳立てしてやるか…。

 僕は一歩、小学生らの方へと近づいた。

 その瞬間、子どもらの顔が猛獣と対峙したかのように引きつった。

「うわああっ! サツジンキが来た!」「逃げろおおおおおっ!」「殺されるううううっ!」

 劈くような悲鳴と共に、子どもらが蜘蛛の子を散らしたように走り出す。「ぼくがまもってあげる」と豪語していた男の子も、我先にと飛び出し、角を曲がって見えなくなった。

「………」

 柔らかな風が、ビニール袋を運んでくる。

 カラカラ…と窓が開く音がしたので見ると、民家から女性が覗いていた。僕と目が合った瞬間、小さな悲鳴を上げて窓を閉める。

「うん、なるほどね」

 僕はおどけたように言うと、また、学校へと続く道を歩き始める。

 今日も世界は、通常運行だった。

        ※

「近隣住民から通報が入ったよ」

 一時間目の授業が始まる前、僕は先生に呼び出され、生徒指導室の椅子に腰を掛けていた。

「君が、小学生を襲っていたって」

「襲ってません」

「小学生の親からも通報が入ってる。君に襲われそうになったって」

「襲ってません」

 僕は先生と決して目を合わせず、淡々とした口調で言った。

 先生もまた天井の方を見て、傍にあった机をコツコツと叩いていた。

「これで何回目だ?」

「さあ? 少なくとも、十回は通報されたかな」

 肩を竦める。

 先生は目だけを動かして僕を見た。

「もういい加減わかれよな。お前は、まともに生きていい人間じゃないだろ?」

「僕は人間ですよ」

「自分のやることが、誰かを傷つけるってことを憶えておけ…」

 カラン…と乾いた音を立てて、先生が持っていたペンが転がる。

 目だけを動かして僕を見た先生は、何とも面倒くさそうに言った。

「多様性って言葉を盾に、お前はこの高校に入学したんだ。俺が試験官なら、とっくに落としてる。そのことを理解して動けよな。でないと、すぐに退学にさせてやるからな」

「…わかりましたよ」

 若干不満そうな口調に、先生は何か言いたげな顔をした。

 約十三秒の沈黙。

「…もういい、いけ」

 耐えかねたように言われ、僕は立ち上がった。

「失礼します」

 扉に手をかけた時、背後から舌打ちが聴こえた。

「ったく、手えかけさせんなよ」

「…はい」

 先生の顔を殴りたくなる衝動を抑え、僕は外に出た。

 もう授業が始まっているから、廊下には誰もいない。まっすぐ進んで曲がれば僕の教室だったが、落ちていた綿埃が、どこからともなく吹き込んできた風によって、渡り廊下の方へと飛んで行った。

 まるで引き寄せられるように…という言葉を口実に、僕は踵を返して、渡り廊下へ進んだ。

 理科室や家庭科室がある南校舎の廊下を、無駄なカロリーを消費しながら歩き、また渡り廊下を渡って、北校舎に戻る。そして、しばらく階段の踊り場でボーっとした後、教室に戻った。

 扉を開けると、国語の授業を受けていた生徒らが、一斉に僕の方を振り返る。気にしまい…と思っていたが、皮膚が冷えるような感覚がした。

「遅れてすみませんでした」

 俯きがちに言うと、頬に力を込め、自分の席に歩いていく。

 強張ったような教室に、誰かの声が響いた。

「事情聴取でも受けてたのか? 殺人鬼」

 その言葉が僕の足首に絡めつき、歩みを止めた。

 水面を殴りつけた時のように、明らかに教室の空気が騒めくのがわかる。

 声のした方を振り返ると、ふと、おとなしそうな女の子と目が合った。

 彼女は「ひっ…」と悲鳴を上げると、俯いてしまう。その横にいた細身の男が、横目で僕を見てにやにやと笑っていた。

「今日は誰を殺したんだ? いつ逮捕される?」

 男は続けざまにそう言う。周りにいた者たちが、みるみるこの世の終わりみたいな顔になっていく。

「ちょっと、三宅くん…、静かにしてよ」

 新任の若い国語の先生が泣きそうな声で言った。

 三宅…と呼ばれた男は鼻で笑い、椅子の背もたれに体重を預けた。

「なんすか? 先生、怖いんですか? 幸田が」

「いや…、それは…」

 まさか生徒を「怖い」なんて言えるはずもなく、先生は固まってしまった。いやそもそも、僕は「幸田」という名前ではない。

 腹の底から、何かがこみ上げて、胸の真ん中で詰まるような感覚。糸に引っ張られているみたいに、指先がぴくぴく…と痙攣する。

 つま先はもう三宅の方に向いていた。

「なんだ? やるのか?」

 それに気づいた彼は、挑発的に言った。

 耐えろ…耐えろ…耐えろ…。そう必死に言い聞かせる。

 さらに、頭の中で、今は亡き静江さんに言われたことを反芻させた。

『絶対に、喧嘩をしちゃダメだよ』と。

 約束を守れ。喧嘩をするな、喧嘩をするな。

 よし…、大丈夫、僕は大丈夫。大丈夫…。

 ひゅっ…と息を吸い込むと、貼りついた絆創膏を剥がすかのように、思い切って踵を返し、自分の席についた。

 何事もなかったように、鞄から教科書、ノート、ペンケースを取り出し、机の上に広げる。

 それを見た三宅は、大げさに舌打ちをした。

 国語の先生は、ほっと息を吐いて、授業を再開する。

 でも、僕が帰ってきた教室はそれどころじゃなくて、みんな肩を強張らせ、そわそわとしていた。まるで、授業参観の時のよう…。いや、市のお偉いさんが視察に来た時のような…、そんな殺伐とした空気が漂っていた。

 誰かが、ぼそり…という声が聴こえた。

「ほんと、気味が悪いわ」

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