第一章『クローンは殺人鬼の夢を見るか』

第2話

 最近、同じ夢を見る。

 夢の中で僕は、刀を携えある病院の前に立っていた。

 ため息をつくとともに、ガラス戸を押して中に入る。ツンと鼻を突く消毒液の匂い。生ぬるい空気。靴墨がこびりついたリノリウムの床。コツン…と踏み鳴らして、一歩進んだ。

 受付には、眠そうにした看護師さんがいて、僕を見るなり、怪訝な顔をした。

「どうされたんですか? 間宮さんならもういないですよ?」

 まるで人の心を抉り出すかのような、棘のある声。

「こっちは忙しいんですよ。さっさと出て行ってもらえますか?」

 傍らにあった書類を掴み、看護師さんがそう言う。

 その瞬間、僕は刀の柄を掴むと、漂う埃を裂くように抜いていた。

 もうずっと納屋に仕舞い込んでいた刀はどうしようもなく錆びていて、抜いた衝撃で、赤錆の粉が、煙草をくゆらせたように舞った。

 そっと刃に触れると、指先に痛みが走る。切れる痛みというよりも、棘が刺さる痛みだった。

 もう斬ることは叶わない。だが、その重厚な様相は、「殴打」という文字を僕の胸に刻んでくれるようだった。

 突如刀を抜く僕を見て、看護師さんの目が丸くなる。

「何やっているんですか?」

 僕はため息を吐くと、一歩、看護師さんに近づいた。

 看護師さんが顔を強張らせながらも、鼻で笑う。

「あんまり人のことを馬鹿にしていると、警察、呼びますよ?」

 僕は刀を振り上げた。

 そして、鈍りに鈍った、重々しい刃が、その顔に叩きこまれる…。

        ※

 その瞬間、僕は目を覚ました。

「……良かった」

 夢であることを安堵し、ぽつりとなぞる言葉が、1LDKの部屋に無機質に響く。

 目を動かして、棚の上のデジタル時計を見ると、六時三十二分だった。

 まだ起きる時間じゃないけれど、身体がものすごく汚れているような気がして、たまらず上体を起こす。俯いた瞬間、頬を伝って、粘っこい汗が布団に落ちた。ツンとした臭いが鼻を突き、腹の底で内臓が溶けているかのような感覚。

 窓辺で鳴く鳥の声に混ざって、耳の奥で心臓が動いている。逸っているわけではないが、爆発するような拍動だった。

「くそ…」

 夢でよかった。とは言え、手の中にはまだ、人を殺した時の感覚が鮮明に残っていた。

 途端に吐き気を覚えた僕は、トイレに駆け込み、便器に顔を寄せて激しくえずいた。だけど、胃の中は空っぽで何も吐き出されることはなかった。ただただ、体力を消費しただけ。

 出ないものは出ないのだから、諦めて立ち上がり、シャワーを浴びる。身体を洗った。特に、手は念入りに擦った。

 それから台所に立ち、乾いたフライパンを熱して、適当に目玉焼きを焼いた。

 炊き立ての、宝石のようなご飯をお茶碗によそい、インスタントの味噌汁に湯を注ぐ。

 勉強机に皿を並べると、大げさに「いただきます」と呟いて手を合わせた。

 ふわっ…と立ち込める湯気を吸い込み、箸を掴む。

 さあ、食べよう…と思った瞬間、僕は箸を置き、項垂れた。

「ああ、もう…」

 人を殺す夢を見た後じゃ、朝食なんて食べられるわけがなかった。

 結局、水だけを飲んだ僕は、ご飯はお釜に戻し、味噌汁は三角コーナーに、目玉焼きはラップを被せて冷蔵庫に入れた。

 学校に行くまでまだ少し時間があったけれど、この部屋にいたって気が滅入るだけだから、さっさと学ランに着替え、玄関に置いてあった鞄を掴んだ。

 いざ出て行こうとしたとき、大切なことを思い出し、立ち止まる。

「ああ、そうだ」

 ぱたぱたと廊下を戻った僕は、棚の上にあった小さな仏壇に手を合わせた。

「…行ってきます。静江さん」

 立てかけてあった遺影には綺麗な女性が写っている。その目の下には黒い隈が浮いてあって、写真越しにも、生々しく彼女の葛藤が伝わってくるのだった。

「さて」

 己を鼓舞するように言った僕は、玄関のドアノブを掴んで、一思いに開けた。

 途端に、朝の爽やかな風が吹いてきて、僕の頬を撫でた。

 澄んだ光が網膜を刺激し、脳にこびり付いた霧を晴らす。

 スニーカーを履いた靴を一歩踏み出すと、コツン…と乾いた音が立ち、全身に微かな電気が走るような気がした。

 完全に外に出た僕は、頬に当たった落ち葉を払いつつ、空を見上げた。

 青いペンキをぶちまけたような、青い空。ひびが入るかのように、飛行機雲が一閃。

「………」

 甘い味を舌先に感じつつ視線を下ろすと、一階の部屋から誰かが出てくるのがわかった。

 二十代くらいの女性。その後に、小さな子供が続く。二人は手を繋ぎ合って、向かいの道路へと出て行った。きっと幼稚園に行くのだ。

「……」

 なんとなくそれを見送った僕は、部屋の鍵を閉めてから、階段の方へと歩き出す。お隣の扉の向こうからはニュースの音が聴こえた。

 階段を降りて塀を見ると、猫が微睡んでいた。

 駐車場を横切り、道路に出る。

 心臓が、少しだけ逸る。

「よし…」

 意を決し、歩き出す。

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