16ー1「喉元過ぎれば火傷」

 視界に映るほとんどは純黒の世界。足元には無数の枝分かれを持つ道だけが伸びている。橘はその上を歩んでいた。足音が嫌に響く。分かれ道の一つまで来ると、橘は俯いて立ち止まった。



 (自分の過去の行動を悔いるのは当然のこと。どうにもならない癖に一丁前に振り返るだけ振り返る。もう一度やり直したとしても、上々の結果を出せるはずもない。それでも、人間は後悔して、後悔して、後悔する。なぜならそれを無視できるほど薄情じゃないから。無視できるほど前を向けないから。)


*─*─*─*─*


 橘は高校卒業後すぐにPGOに入局した。本部四階に位置する灰のオフィスは、今も数十年前も大して変わらなかった。周りの人たち以外は。

 ある夏、橘の同期である中元なかもとりくはくるくるとあぐらをかいて椅子を回していた。タンクトップのジャージ姿で、クーラーの効いた部屋でも汗が止まらなかった。デスクのパソコンには家族写真がぶら下がっていた。



 「あっちー……先輩のしごきって、拷問の間違いじゃねーの……ちべっ!」



 中元の頬に冷えすぎた缶ジュースが触れた。



 「中元、お疲れ。んなことだろうと思って、ほら」



 まだ若さの残る橘は缶ジュースを手渡した。



 「まあ、先輩は赤の能力だし、灰のパージ能力の私たちと火力の差があるのは仕方ないさ」



 橘は考えるように顎に手を当てた。



 「サンキュ~!実は俺もさっき買ったから、これ交換しようぜ!」


 「そうだったのか。ありがとう、貰っとくよ」



 橘は笑顔で中元に差し出された缶ジュースを受け取った。

 中元は本部の廊下にもたれて、缶ジュースを体に流し込んだ。



 「もう四年目とか信じらんねーな。まだ一年も経ってねー気がするわ……あー、あちー……」


 「だな」



 橘は深く共感しつつも、短い相槌を打った。途端に中元が真面目な顔になり、姿勢を正した。



 「……なー健太郎、あの話聞いたか?」


 「……ああ、朱藤先輩のことか……殉職されたって……」


 「おう……」



 中元が缶をぐっと握りしめた。



 「怖いか?」


 「いんや!」



 橘の問いに、中元は元気よく顔を上げた。



 「俺、思ったんだ。俺らが初めて生きてるって分かるのは、死んだときなんじゃねーかって。死んだときに初めて生きてたことが証明されんじゃねーか?」


 「んん……悪いが、よく分からない。」



 橘は少し考えた後で、あっけらかんとしてそう言った。



 「はっ、だよな!」



 中元は破顔一笑した。橘は常々、中元は馬鹿かと思いきや突然変わったことを言い出すやつだと不思議に思っていた。


*─*─*─*─*


 その夜、本部にサイレンが鳴り響いた。寮で眠っていた橘もサイレンの音にぱっと目を覚ました。

 PGO本部の真っ白な廊下を全速で急いだ。曲がり角の一つでキュッと立ち止まると、橘は目を見開いた。壁に飛び散る血痕。血塗れで倒れるPGO職員。床に流れる大量の血。その悲惨な状況の廊下の先には、異形の何かがいた。背中から肉で出来た厚い羽のようなものが生え、異常な数の腕とも足とも分からないものも大小様々伸べている。大きな腕二本を乱暴に振り回し、全身から突出した穴からパージ能力をまき散らしていた。



 「健太郎、下がれ!」


 (中元⁉)



 橘は我に返って叫ぶ中元の方を見ると、前方から化け物の長い腕が伸びてきていた。



 「くっ!」



 橘は間一髪のところで後ろに退いた。橘は武器の棒を握りしめた。



 (あれは、一体……⁉)



 怪物は人間の叫び声のようなものを発し続けた。

 橘が現着したときより、さらに凄惨な現場には職員が転がっていた。まだかろうじて立っている者も今にも膝が折れそうだった。命を落としたのは職員だけでなく、結局何かもわからない怪物もその息を止めていた。ボロボロの橘は肩を押さえながら、うつぶせで倒れる中元の身体を起こした。

 橘は親友の遺体を目の前にして大粒の涙を流し唸ることしかできなかった。中元のジャケットを掴みすがり泣くと、橘のポケットからカランと缶ジュースが転げ落ちた。缶は血に染まった。


*─*─*─*─*


 喪服に身を包んだ橘は火葬場外のベンチで血のついた缶を握りしめた。生気なくうなだれる肩にそっと手が置かれた。



 「生きてることに負い目を感じるな。こんな仕事、運も実力のうちだ……」



 橘は俯いたまま、上司のその言葉に虚を突かれた。どうしても自分の中でこの考えが拒絶された。


*─*─*─*─*


 走馬灯は時に素晴らしい思い出ばかりではない。

 真っ暗な世界で、橘はやがて別の分かれ道に目を向けた。



 (運命なんて存在しない。そんなものはない。小さな偶然の積み重ねを自分の願望と混同して運命と呼んでいるだけだ。そう思うしかなかった。でも、もしかしたら……)



 そして分かれ道に一歩踏み出した。

 佑心の目の前の橘の目が再度開かれた。橘のうつろな目には涙を流す佑心が映った。



 「新田さん……」


 「っ!」



 橘が佑心に目を向けると、橘の目に微かな光が光った。



 「……何故か、何故か自分は、このために生きてきたんだと、分かります……」



 この世の暗さなんて一つも知らないような優しい笑顔でそう言った。佑心は橘の遺体を前に慟哭した。

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