4. たすけて
『ねね、お兄ちゃんあそんで!』
私がまだとても小さかった頃。その時の私は、とても兄にベッタリだった。所謂お兄ちゃんっ子ってやつだ。
『ねぇねぇお兄ちゃん!』
何処へ行くにも、何をするにも、必ず傍には兄がいた。
『お兄ちゃんお兄ちゃん!』
兄はいつも私に付き合ってくれた。いつも私と遊んでくれた。構ってくれた。ずっと一緒にいてくれた。そんな兄のことが、私は大好きだった。
でも、それも長くは続かなかった。
―――
私の兄は紛れもない天才だった。
なんでもかんでも、少し齧れば出来るようになる。勉強も、スポーツも、ピアノ、書道、ゲームさえも。兄は一度手を付けてしまえば、完璧にこなしてしまう。それでいて、優しい性格な上にコミュニケーション能力も高く世渡り上手ときた。
文字通り、非の打ち所がない完璧な人間。
そんな兄は、校内外問わず試験は常にトップであり、成績も全て最高値。中学では生徒会長も務めて、あらゆるコンクールも総なめ。歴代でも類を見ない優等生として学校では評価され、教師はもちろん生徒からも人気な人で、尊敬すらされていた。
でも、私は違った。
私は兄とは違って、なんでも出来る訳ではない。勉強もスポーツも、人付き合いだって得意じゃない。特別なにかに秀でている訳でもない、何もかも平凡な人間。それが私だった。
中学に上がった頃から既に雲泥の差があった。本当に、私と兄には血が繋がっているのか疑うぐらいに。
「あの生徒会長ってすごいよね~」
「だよね~。なんでも出来るって感じで、かっこよくて憧れちゃうな~」
辛かった。
優秀な兄の妹。それだけで、私にとっては大きなプレッシャーだった。
私は兄とは違って、優秀ではない。
何度も何度も、「優秀な兄の妹」として周りから期待されてきた。でも、私はいつも応えられなかった。
「それに比べて――」
それ故に、周囲から嫌味のように兄と比較されてきた。何度も何度も、私がなにかをする度に。
だから頑張った。頑張って自分を磨いた。
勉強もスポーツもなにもかも、少しでも兄に近づけるように努力した。周囲の期待に応えるために。
「――あなたはもっと出来ないの?」
でも、ダメだった。
何度頑張っても、何度やっても、結果は変わらなかった。
「君はお兄さんと違って――」「君のお兄さんはもっと――」「君もお兄さんみたいに――」
私に投げられるのは、いつもと変わらない教師や生徒からの冷たい言葉。兄とは違い秀でた能力を持たない私に向けられる、哀れみの視線。
「……すみません。もっと精進します」
その度に、私は謝っていた。
だから、もっと頑張らないとって思った。
勉強もスポーツも、何もかも兄と同等以上の成果を出せば、きっとみんかが私を褒めてくれる。私を認めてくれる。私を見てくれる。
その一心で、毎日毎日必死になって、寝る間も惜しんで勉強に明け暮れていた。気が狂うほど、机と向き合っていた。体力づくりも人付き合いの仕方もなにもかも、兄と並ぶために欠かさなかった。全ては、私が私であるために。
そうして迎えた、中学一年二学期の中間試験。
大丈夫。私ならやれる。たくさん頑張ったから。だから今度こそ、あの人に近づくんだ。
……でも、またダメだった。
張り出された試験順位上位者が記されている表に、私の名前はなかった。対して兄は、また一位だったと生徒や先生たちが話していた。
「――あなたって、お兄さんと比べて全然ダメなんだね」
また、私は兄と比べられる。
哀れみの視線と失望の視線に晒された私は、やがて痛感した。
私は、なにをやってもダメなんだって。
誰も「私」を見てくれない。みんな私のことを「優秀な兄の妹」として見ていることを。
それが、私の心を蝕んでいった。
「……っ」
そしていつの日か、私は兄のことが嫌いになっていた。
―――
「おかえり」
「…………」
待ち伏せでもしていたのか、兄はすぐに出迎えてくれた。でも、私は言葉を返すことも、目を合わせることもなく、靴を脱いで横を通り去る。
今はただ兄と一緒の空間にいたくなくて、一秒でも早くこの場を離れたかった。
「こんな夜遅くにどこ行ってたんだ」
だからこそ、兄の表情が強ばっていることに気が付かなかった。時刻は九時を過ぎているため、私を心配するのも無理はないことも分かっていた。
でも今の私にとっては、それが心底鬱陶しく感じた。
「………次からは気をつける」
振り返り、淡々と告げる。そして踵を返す。
必要最低限の会話。今の私にとっては、それすらも憂鬱で億劫なものだった。
部屋に戻り、鞄を床に捨て落とし、ベッドに腰掛ける。途端に、先程の兄に対して怒りが湧いてくる。
「なにも、知らないくせにっ……!」
それと同時に滴る一粒の涙。
怒りと悲しみ、哀れみ。様々な感情が入り交じり、情緒がぐちゃぐちゃになる。
「うっ、うぅ……!」
嗚咽を押し殺して、感情を押さえ込んで、ひたすら涙を拭う。でも、その涙は止まることを知らない。何度拭っても、溢れ出てくるばかり。
兄は凄い人。でも、私は違う。
私はなんの能力も持たない、平凡な人間。本当に兄と血が繋がっているのかすら、疑いたくなるほど比べられて。
誰も「私」を見てくれなくて。
自分の存在価値すら分からなくなって、何のために生きているのかすらも、分からなくなって。
私は、一体「何者」なんだろう。
私の心は、すでに限界を迎えていた。
もし私が、あの人の妹じゃなければ――。
こんな辛い思いをしなくて、済んだのかな。
―――
あれ以来、学校には行っていない。
今の私にとって、学校なんてどうでもよかった。行ったところで、また勝手に失望されて、劣等感に苛まれて、自分を見失っていくだけだから。
一体いつから、こうなっちゃったんだろう。
私のなにがいけなかったんだろう。
私はどこで、間違えちゃったのかな……。
その答えを知ることは永遠にない。誰も、私の味方なんていないから。
「…………」
だから引きこもった。私はもう、誰とも関わりたくない。私はずっと一人ぼっちなんだ。
私が部屋を出ることはない。そのため、ここしばらく兄とも顔を合わせていない。むしろ合わせたくなかった。
また劣等感と自己嫌悪に狂わされて、嫉妬と嫌悪で自分の情緒をおかしくさせるだけだから。
そんな私の気持ちに構わず、兄は今日も私に言葉を掛ける。気に掛けてくれる。
「大丈夫か……?」
扉越しから聞こえてくるその声は、私の心臓を抉る鋭い凶器そのもの。
耳を塞ぎたかった。今はとにかく、兄という存在を認識したくなかった。
「……なにがあったか、話してくれるか?」
うるさい、黙ってほしい、聞きたくもない。話す気もないし、兄に頼る気もない。
今すぐこの場から消えて欲しかった。
「…………」
でも口には出さず、ひたすらに祈る。それがお互いのためだと思ったから。
「……無理にとは言わないからさ。でも、いつかはちゃんと話してほしい」
でも、お兄ちゃんは去るどころか、口を開き続けるばかり。
「俺は……お前の味方だから――」
まるで私の気持ちを分かっていない。それが心底イライラした。腸が煮えくり返って、つい声を荒らげてしまうくらいに。
「……うるさい! 私のことなんか放っておいてよ!」
私はきっと、誰かに自分の気持ちを理解してほしかったんだと思う。
私は兄みたいに完壁じゃない。だから、誰かに縋らないとやっていけない。それが未熟者である者の運命だから。
「ど、どうしたんだよ……?」
でも、誰も分かってくれなかった。みんな私を見てくれなかった。
「勝手なこと言わないで! あなたになにが分かるの!? 周囲の期待に応えられずに、勝手に失望されて、哀れみの視線を向けられる辛さが、あなたに分かるの!?」
分かるはずがない。だって、私が頑なに口を閉ざしているから。言わなきゃ伝わらないと分かっていながら。
それでいて、何も考えずただ本能的に怒りをぶつける姿は、まるで八つ当たりしているように最低で、愚かで、自分で自分を殺してしまいたかった。
「どうして私なんかに構うの!? 私があなたの妹だから!? 家族だから!? そんな義務感で私を気にかけないでよ!」
動揺している兄に構わず、私はひたすらに怒声を浴びせる。それが意味のないことだと分かっていながら。
何度も何度も、今まで溜まっていたストレスを吐き出すように、口を開いては自分勝手なことを口走った。
「誰も助けてなんて言ってないっ……! あなたの勝手な善意に、私を巻き込まないでよっ!」
息が切れるまで叫んでいた。
気がつけば、兄が口を開くこともなくなっていた。きっと動揺と困惑でどうしたらいいか分からないのだろう。
「……っ」
最悪な気分だった。
今すぐにでも、死んでしまいたいと思った。
私の力不足で、全てが嫌になって、引きこもって、兄に心配かけさせて、それでいて自分勝手に愚痴と怒声を吐いた。
そう。兄はただ、私のことが心配で声を掛けてくれただけ。私が引きこもっても何も言わず、それどころか優しく接してくれた。
私だって、分かっていた。
兄はなにも悪くないって。
「……もういいでしょ。どっかいってよ」
でも、誰かに八つ当たりしないとやっていけなかった。八つ当たりして、これは仕方なかったんだって無理やり思うことでしか、自分を正当化出来なかったから。
「でも……」
そんな自分に、ひどく嫌気が差した。
「――どっかいって!!」
本当は、助けて欲しかった。
でもこうやって、偽りの言葉を羅列する自分のことが心底嫌いだった。今すぐにでも殺したいと思うほど。
「助けて」と言えば楽になれるかもしれないのに、どうして喉から出ないのだろう。
「うっ、うぅぁ……」
その結果、こうやって惨めに泣くことしか出来なかった。こんな何の力もなくて、惨めで、哀れで。
「私なんて、私なんてっ……!」
そんな私なんて――。
「――生まれてこなければ良かった……!」
そう思ってしまった。
私にはもうなにも残っていなくて、存在意義もなくて、味方もいなくてーー。
「……ごめんな」
――ちがう。私が頑なに兄を味方だと認識したくないだけなんだ。心のどこかでは、兄は私の味方だって、理解しているのかもしれない。
「……おやすみ」
兄がその場を去ろうとしている。
とてつもない寂しさと孤独感を覚えた。行かないでほしいって、そう思った。
つまりそれは、私にはお兄ちゃんという存在が必要なんだと示唆していた。
取り残された私は、ただひたすらに泣いた。
今の感情を形容するのは無理があった。そのくらい、私の精神はおかしくなっていた。
自分が無力だからこうなって、唯一手を差し伸べてくれた兄に対して無神経に暴言を吐き、終いには、素直になれない自分に嫌気が差した。
私は、一体どこまで落ちぶれればいいのだろう。私は本当にダメな妹だ。
誰か私を、殺して欲しい。
もう辛い思いなんてしたくない。
誰かに兄と比べられるのも、自分の無力さを痛感するのも、完璧な兄に嫉妬するのも、素直になれない自分自身に失望するのも。
「……っ!」
一滴の冷たい涙は、私の情緒を無視するように頬を伝う。
私は、どうすればいいの……?
その問いの答えは涙ともに儚く散っていくのだった。
――ねぇ、お兄ちゃん……。
―――
どれくらい時間が経っただろう。
あれ以来、兄は一度も私に声を掛けなかった。きっと、私に愛想尽かしたのだろう。それも仕方ないくらい、私は兄にひどいことを言ってしまったから。愛想尽かされて当然だ。
……本当は、助けてほしかった。
どうして素直になれなかったんだろう。なんで、「助けて」って一言を出せなかったんだろう。
頭の中が、ずっと後悔と自己嫌悪に支配されていた。
「…………」
自分の存在意義が分からない。
学校のみんなは「私」という存在を見てくれない。兄と比較して「兄の妹」として私を認識している。
私だって、一人の人間だ。私はずっとみんなから「私自身」を見てほしかった。
「…………」
自分の無力さが憎い。
そもそも、私が兄と対等に渡れていれば良かったんだ。そうすれば、比較されることも、劣等感に駆られることもなかった。
兄のことを嫌うことも、なかったのに。
「…………」
頭を悩ませる度に、私は自分を見失っていく。
その度に、何度も何度も思っていた。
――どうして私は、生まれてきてしまったんだろう。
頭を悩ませても後悔しても、今が変わる訳じゃないと分かっていながら。
「起きてるか?」
不意に兄の声が静寂な空間に響き渡った。でも、私は返事をしなかった。
「……独り言だと思って聞いてくれ。色々考えたんだけどさ……俺のせいだよな。彼方がこうなっちゃったのって、きっと俺のせいだよな」
その声はどこか弱々しくて、とても頼りなさそうだった。今にも崩れてしまいそうで、息を吹きかけただけで折れてしまうような、そんな脆い声だった。
「ごめんな、辛い思いさせちゃって。気づいてあげられなくて。ほんとうに、ごめんな……」
どうして兄が謝るんだろう。どうしてそんな弱々しく言葉を紡ぐんだろう。
「こんなお兄ちゃんで、ごめんな……。なにもできなくて、ごめんな……」
兄は、何も悪くないのに。
「…………」
それでも、私の声は喉を通らなかった。
「……辛いことがあるなら、話してくれないか? 俺は、いつまでも待ってるからさ」
どうして兄は、こんな私に優しくしてくれるのだろう。こんな私を、そこまで大切にしてくれるんだろう。
兄にとって、私はどういう存在なのだろう。なにが、兄をそうさせているのだろう。
私という存在が、兄にとっては大切なものなのだろうか。
「……っ」
その時、喉に詰まらせていた声が出かかった。
まだ、間に合うのかな……。
今「助けて」って言ったら、兄は助けてくれるのかな。
もう一度、兄という存在に縋っていいのかな。
「……あっ…………」
兄が、どこか遠くへ行こうとしていた。その足音は確かに私の元から遠ざかって、また孤独になろうとしていた。
「ま、まって……!」
縋るような気持ちでいっぱいだった。今はただ、一人ぼっちになりたくない。その一心だったから、意外にもすんなりと声は出せた。
「……どうかした?」
扉越しから聞こえる、兄の優しい声。
でもどうしてか、その先の言葉が出なかった。喉が強ばって、思うように発声できない。
また私は、同じ過ちを繰り返すのだろうか。もう一人ぼっちは嫌なのに……辛い思いをするのは嫌なのに。
「ゆっくりでいいから」
でも、兄は待ってくれた。こんなどうしようもない私のために、時間を使ってくれた。
今にも泣いてしまいそうな気持ちを堪えて、でも無情にも涙が止まることはなかった。
たった一言、言うだけでいい。今後こそ、自分の本音を伝えなくちゃ。
私が、私であるために。
「――助けて、お兄ちゃんっ……!」
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