2. いってきます


「んんー……」


 目を開けるとそこには、お兄ちゃんの姿。とても気持ちよさそうに寝息をたてていた。

 外はすっかり日が昇っていて、窓から侵入する外の光が、とても眩しかった。


 昨日は、どうなったんだっけ。

 休み明け初日の学校を休んで、お兄ちゃんと一緒にいて、お兄ちゃんと致して、それで……。

 ……ダメだ。昨日の記憶が断片的にしか残っていないから、よく思い出せない。


 ――でも、気持ちよかったな……。


 この身体の感覚だけは、確かに覚えていた。昨日、私がお兄ちゃんに攻められて感じた快楽を。


「……~~っ!」


 傍らにあったスマホを手に取り、暗い画面に映りこんだのは噛み跡がくっきりと残った私の首筋。

 襲いかかる羞恥心を振り切り、その辺に脱ぎ捨てられていたTシャツを着る。


「……?」


 その時、ふと思い出した。


『ねぇ、やっぱり学校行きたいかな……?』『私は大丈夫だから、学校行っておいで』


 よく覚えていないけど、あの後お兄ちゃんとそんな会話をした記憶が微かにある。

 もしかしたらお兄ちゃんは、私に気を遣っているのかもしれない。自分が私の時間を奪ってしまっていることに、負い目を感じている。だから、私にああいうことを――。


「おはよう……」

「ひゃっ!? おっ……おはよう、お兄ちゃん……」


 考え込んでいる最中に声を掛けられた私は、着替え中ということも相まって反射的にびっくりしてしまう。なにより、お兄ちゃんと顔を合わせるのが少し恥ずかしかった。


「昨日はその……激しかったね……」

「……嫌だった?」

「い、嫌とかじゃないよっ! 私もその……気持ちよかったし……」

「なら良かった」


 なんだか、お兄ちゃんの元気がないように見えた。


「……どうかしたの?」

「……やっぱり、行っちゃうの……?」


 どこか不安そうな顔を見せるお兄ちゃん。恐らく、昨日会話した学校のことを言っているのだろう。やっぱり、寂しいんだ。

 でもだからといって、NOなんて言えない。これはお兄ちゃんが私のためを思って考えて、覚悟を決めて決断したこと。それを無下にはできない。


「うん」


 そして私は、首を重く縦に振った。


「そっか……」


 その不安そうな表情は変わることなく、むしろ悪化しているように見えた。目元から、うっすらと透明な液体が溢れ出ていた。


「お兄ちゃん……ほんとに大丈夫……?」

「ご、ごめん……自分で決めたことなのに……。でもやっぱり寂しいよ……!」


 ぽろぽろと、その雫は頬を伝い、地に落ちる。

 覚悟を決めたのに、こうしてまだ私に縋ってしまう自分が、嫌だったんだと思う。


「大丈夫だよ」


 そんな悲痛に襲われているお兄ちゃんを、そっと抱きしめる。


「必ず帰ってくるから。心配しないで」


 お兄ちゃんを慰めるように優しく言葉を吐く。


「……ごめんなさい……こんな、お兄ちゃんでっ……!」


 それでもその小さな身体は微かに震えていて、止まることはなかった。


 それにしても『こんなお兄ちゃん』か……。その言葉だけは、お兄ちゃんの口から聞きたくなかったな……。



 ―――



「ねぇ……」


 部屋を去る直前、お兄ちゃんは私の制服を掴み私を引き止める。振り返ると、やはりというべきか、とても不安そうな表情でこちらを見ていた。


「大丈夫。すぐに帰ってくるから」

「……うん」


 お兄ちゃんは震える身体を私に預け、ギュッと抱きしめる。私はすぐさま抱き返して、お兄ちゃんの背中をゆっくり擦る。


「心配しないで。お兄ちゃんを一人にさせることなんて絶対しない。必ず、帰ってくるから」


 やがて震えは止まっていき、お兄ちゃんは顔を上げる。目を閉じ、口先を私に向けて、なにかを待っていた。


「……んっ」


 そんな可愛らしい顔をしたお兄ちゃんの唇に、私はそっと自分の唇を重ねる。ふんわりとした柔らかい感触を貪るように、私たちは口付けを交わす。

 数秒という短い時間。私たちはこれ以上踏み込んではいけない。もう後には戻れなくなってしまうから。


「……いってらっしゃい」


 どこか気弱そうな声。でも、はっきりと伝わる覚悟。お兄ちゃんは、変わろうとしている。自分自身のために。そして、私のために。


 だからこそ、このお兄ちゃんに対する劣情を抑え込まなきゃいけない。


「うん、いってきます」


 私の大好きな、お兄ちゃんのために。



 ―――



 この感覚。とても久しぶりで、経験したくもなかった。

 孤独、寂しさ、不安。妹がいない今、私の心に空いた穴を塞ぐ手段はない。だからこそ、布団に包まって震える体を無理矢理抑えることしかできない。


 今頃、妹はどうしているだろうか。学校の友達と仲良くやっているのだろうか。


 そう考えると、心がモヤっとした。

 妹は、私以外の人に笑顔を向けているのかな。その笑顔は、私に対してじゃないんだな。妹、誰かに取られちゃうのかな。私の、妹なのに。私が一番、妹のこと愛しているのに。


 ひどい嫉妬心で、どうにかなってしまいそうだった。


 元々私が提案したのに、この有様だなんて。

 私は、本当にダメなお兄ちゃんだ……。


「はやく、かえってきてよ……」


 もう精神がボロボロで、涙も溢れ出て、なにも考えたくなかった。ただこの辛さに耐え続けて妹を待ち続けることしか、今の私にはできなかった。



 ―――



 放課後にて生徒たちが部活動に明け暮れる中、私は校内のとある一室にて一人、浮かない顔をしていた。


「…………」


 お兄ちゃんが心配だった。

 本人が提案してきたことだけど、それでもお兄ちゃんへの心配は払拭されない。授業中も、ずっと頭の片隅にお兄ちゃんがいた。だからこうして、お兄ちゃんから連絡がないかずっとスマホを凝視している。学校へスマホの持ち込みは禁止されているけど。


「……先輩?」


 だからこそ、ビクッと身体が小さく反応した。

 声がした方を見れば、私とは異なる色のスカーフを身につけた女子生徒が入口付近にいた。


「な、なに……?」


 お兄ちゃんのことで頭がいっぱいで、彼女が入室してきたことに気がつかず、私は反射的にスマホを隠す。


「今の、スマホですよね……?」


 当然隠し通せる訳もなく、言及されてしまう。


「……ごめん」

「別に誰かに言いふらしたりは……。先輩のことですから、何か特別な理由があるんですよね?」


 彼女はずいっ、と顔を寄せた。その綺麗な瞳は、私を逃さない。


「まぁ、ね……」

「身内の不幸……とかですか?」

「……うん。そんなとこ」


 見られてしまった以上、今更嘘をついても仕方がない。不幸といえば不幸なこと。私はなにも間違っていない。


「……では、今日の生徒会会議はお休みされますか?」

「そうしたいけど、でも……」


 私が、生徒会の活動を休む訳には行かない。だって私は――。


「先輩」


 迷う私に、彼女は力強く私を呼び聰らせる。


「無理しないでください。会長には私から言っておきます。先輩は、家族を大事にしてあげてください」

「……ありがとう。ごめんね、副会長なのに」

「いえいえ、気にしないでください。先輩はいつも頑張っていますから、一回ぐらい休んでも誰も文句言いません」

「そう、かな……そう見える?」

「はい」


 それなら、いいのかな。私の責務を放り出しても。生徒会副会長である私が、お兄ちゃんのために――私欲のために放棄しても。


「じゃあ、お願いしていいかな……?」


 彼女はコクッと小さく頷いた。

 私は目にも止まらぬ速さで準備し、足早に生徒会室を出た。後ろで後輩である彼女に見守られながら。

 今はとにかく、お兄ちゃんに会いたい。その一心で、私は足を動かした。


 彼女が一人取り残された生徒会室で、独り言を呟いていたことを知らずに。


「――だって私は、いつも先輩のこと見てますから」



 ―――



「お兄ちゃん! 大丈夫!?」


 心配が絶えなかった私は、走って帰路についた。乱れる呼吸を整えながら、お兄ちゃんの部屋へと直行した。


「……っ!」


 ベッドに座り込むお兄ちゃんは、私の姿を視認すると安心したように小さく泣きだした。


「ただいま。遅れちゃってごめんね」


 そんなお兄ちゃんを、ぎゅっと優しく抱きしめる。

 お兄ちゃんは身体を震わせながらも、制服にシワが出来きてしまう力で強く抱き返す。それほど寂しくて、不安だったんだろう。


 やがて収まったお兄ちゃんは、ゆっくり顔を上げた。ひどく眼が赤くなっていた。


「……おかえり」

「大丈夫……?」

「うん……」


 本人がそう言うので大丈夫なのだろうが、それでも今日はずっと一緒に居てあげよう。お兄ちゃんを寂しくさせた分、私がたくさん癒してあげよう。


「んっ!?」


 突然のことだった。お兄ちゃんが顔をずいっと近づけてきたと思ったら、お兄ちゃんの唇が私の唇に触れた。

 何度も何度も、執拗に私の唇を奪っていた。


「お、お兄ちゃんっ……! 今汗かいてるからっ……」

「そんなのいいよ。私全然気にしないから」

「私が気にするの!」

「……ダメ?」


 そんな物欲しそうな瞳で見られたら……。


「ひゃっ!」


 我慢できなくなった私は、お兄ちゃんをベッドに押し倒す。その可憐な顔は仄かに赤く火照っていて、そして期待に満ちていた。


「……お兄ちゃんが悪いんだからね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る