if.『偏愛』


 ……怖い。死ぬのが、怖い。


 私は誰からも必要とされていない。私がいなくても、誰も困らない。もう、生きるのすら疲れてしまった。


 だから、死にたかったのに。


「はぁ……はぁ……!」


 鼓動が速くなる。死ねないことに対する焦りと、死ぬことに対する不安と恐怖。


 手首にカッターを添えて、あとは力を入れるだけ。たったそれだけなのに、どうしてか私の手は震えるばかりで、そこから動くことはない。


「なんでっ……!」


 とっくに枯れてしまったはずの涙が、瞳から零れ落ちる。

 焦り、不安、絶望、恐怖、そして自身に対する失望。気が狂いそうだった。


 私は、何をやってもダメなんだ。


「うっ、うぅ……」


 私の手から凶器がずり落ち、静寂な空間に音を立てた。そのまま流れるように膝が崩れ落ち、床にへたり込む。


「誰か、私を殺してよ……」


 そんな悲痛すぎる願望は、誰の耳にも届くことはなかった。



 ───



 私が、お兄ちゃんの全てを狂わせてしまった。

 そんな現実に耐えられなくて、自室のベッドの上で涙を流していた。


「お兄ちゃん……ごめんなさいっ……」


 お兄ちゃんに何もしてあげられなくて、逆に傷つけてしまった自分が愚かで、情けなくて、大嫌いだった。

 お兄ちゃんに話しかけても、返事が戻ってくることはない。お兄ちゃんは私に対して、完全に心を閉ざしてしまったから。


「お兄ちゃん……戻ってきてよ……」


 そんな儚い願望を抱いた所で、お兄ちゃんが戻る訳じゃないのに。


 私は、また一人なのかな……。


 ──ばたんっ!


「……えっ?」


 突如、何か大きなものが倒れる音が響いた。私の部屋からではなく、お兄ちゃんの部屋の方から。


「お兄ちゃん……?」


 考えるよりも先に体が動いていた。体を起こし、自室を出て、お兄ちゃんの部屋の前へ。


「お兄ちゃん、大丈夫……? すごく大きな音がしたけど……」


 返事はない。

 私の中で、嫌な予感が頭を過ぎる。お兄ちゃんに何か異常が起こったのではないか、そんな予感。扉一枚隔てられた、向こう側で。


「お兄ちゃん、開けるよ……」


 手に力を込め、ゆっくりと扉を開けた。

 真っ暗な部屋。でも外から漏れる光によって、見えてしまった。


「えっ……」


 お兄ちゃんが、倒れている所を。


「おにい、ちゃん……?」


 それだけだったらまだ良かった。だってお兄ちゃんの首には、小さなロープが掛かっていたから。

 この状況で、それが意味することは分かりきっていた。


「お、お兄ちゃん!」


 お兄ちゃんの元へ走り出し、首に手を当てる。幸いにも呼吸はしていて、軽く気絶しているだけだった。


 ほっ、と胸を撫で下ろし、直ぐにお兄ちゃんをベッドへ運ぶ。

 しかし安心したのも束の間、とてつもない後悔が私を襲った。だってお兄ちゃんがこうなったのは、必然的に私のせいになるから。


 ぽたぽたと涙が落ちる。

 私の……私のせいで、お兄ちゃんは……。


「ん……」


 お兄ちゃんはすぐに目を覚ました。

 瞼をゆっくりと開け、驚いた表情で私を見つめる。


「な、なんで……」

「お兄ちゃん……良かったっ……!」


 動揺と困惑を見せるお兄ちゃんを他所に、私はお兄ちゃんに抱きつく。

 お兄ちゃんの胸から伝わる心臓の音。口から伝わる吐息。体から伝わる体温。すぐそこにお兄ちゃんが存在している事実に安堵する。


「は、離してよ……!」


 でもお兄ちゃんは、そんな私を突き放した。


「えっ……」


 突き飛ばされて呆気に取られている私に、お兄ちゃんは更に言葉を投げつける。


「なんで……なんで助けたの……、なんで喜べるの……なんでそんな、平気な顔でいられるんだよ!」


 らしくもない怒鳴り声。こんなお兄ちゃんを見るのは、初めてだった。


「私はっ……あなたのせいで辛い思いをしたのに……! なのになんで、そんな平気な顔ができるの……。私がどんなに辛いか知らないくせに……! 私は……今すぐ死にたいんだから邪魔しないでよ……!」


 消え入りそうな、悲痛な声。本当に今にも死んでしまいそうな、そんな声だった。

 でも、それでも私に八つ当たりしないと、やっていけなかったんだと思う。


「おにい、ちゃん……?」


 お兄ちゃんの口から「死にたい」なんて言葉が出て、私は困惑した。


「あっ、いや……違くて……こ、これは……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいっ……!」


 可哀想に。トラウマでパニックになってる。


 意味もなく謝り続けて、誰に許しを乞いているのかすら分からなくて。

 そんなお兄ちゃんを見るのは、心底辛かった。

 だから、早くお兄ちゃんを楽にさせてあげなくちゃって、そう思った。早く、この苦しみから解放させてあげなくちゃって。


 私が、お兄ちゃんを救わなきゃいけないんだ。

 どんな手を使っても、絶対に。


「ううん、大丈夫だよ。お兄ちゃんは悪くないから」


 もう一度、お兄ちゃんを抱きしめる。ゆっくり、優しく、お兄ちゃんの全てを包み込むように。


 お兄ちゃんは優しくて、素敵な人。こんな私にも、優しくしてくれた。だから惚れ込んだ。性別が変わった今でも。

 女の子の姿も、その歪んでしまった顔も、自己否定する姿すらも、私は愛している。


「うっ……うぁぁ……」


 そしてその涙も、声も、何もかも全部私だけのもの。


「んっ……!?」


 顎を持ち上げて、無理矢理その口を塞ぐ。

 舌を入れて、息をする暇もなく私たちは口付けを交わす。


「んっ……んん」


 でも、お兄ちゃんは抵抗しない。それは、私のことを受け入れてくれているということ。


 私たちはベッドに倒れ込み、ひたすらお兄ちゃんと唇を重ねる。ちゅっ、ちゅっといやらしい音が、ずっと部屋で響いていた。

 例え息が苦しくなっても、私は止めない。


「んっ! んんーー!!!」


 お兄ちゃんがジタバタし始める。息が出来なくて苦しんでいる様子だった。でも私は止めない。

 キスを拒むお兄ちゃんを無視して、無理矢理舌を口内にねじ込む。私の溢れ出る唾液が、全部お兄ちゃんの口の中へ流れ込む。


 とても興奮した。

 キスをしていることに対してもそうだけど、なにより私がお兄ちゃんを肉体的に苦しめてしまっていることに、背徳感を覚えた。身体中がゾクゾクして、理性が飛びそうだった。

 もっと、もっと苦しめたい。私の痕を、お兄ちゃんに刻み込みたい。


「んんっ……ぷはぁ……はぁ、はぁ……」


 ようやく口と口が離れると、お兄ちゃんは苦しそうに息を吸った。


「ねぇ、お兄ちゃん」

「……?」


 とろけた目、口から零れる唾液、目尻に浮かぶ涙、朱に染まる頬。こんな姿を見られるのは私だけの特権。誰にも見せたくなかった。


 そう、他の誰にも……。


「このまま、二人だけの世界に行こっか」


 ニコッと、できる限り優しく柔らかに微笑む。


「……ろう、いうこと……?」


 呂律が回っていない。苦しさと気持ちよさで頭が真っ白になっているのだろう。そんなお兄ちゃんが、狂おしいほど愛おしかった。


「えっとね」


 そんな愛おしいお兄ちゃんの耳元で、甘く囁く。


「私と一緒に、心中しよう……?」



 ───



 お兄ちゃんは、『拒絶』しなかった。


 指先に力を込める度に、お兄ちゃんの顔は歪んでいく。とても苦しそうな表情をして、けれども抵抗はしない。


「かっ……あが……!」

「……苦しいよね。ごめんね……もう少しだけ頑張ってね……」


 お兄ちゃんに馬乗りになって、お兄ちゃんの首を両手で締め付ける。

 私の手に伝わるお兄ちゃんの脈。ドクドクと脈打っていて、その感覚がなんだか気持ちよかった。


「っ……う、うぅ……」


 お兄ちゃんのその涙目になってる苦しそうな表情を見ると、身体中がぞくぞくする。

 私は今、お兄ちゃんを苦しめてる。その苦悶に満ちた表情を見ていると、身体から何かが込み上げてくる。


 それと同時に、一種の支配欲のようなものが芽生えた。今のお兄ちゃんは、私の手のひらの上。私が主導権を握っている、そして私は今お兄ちゃんを好き勝手していると、そう考えるだけでとても興奮した。


「かわいい……かわいいよお兄ちゃん……」


 私の中に流れる血が湧き上がる。

 その苦しそうな表情も、今の私にとっては愛おしい。もっと歪めたい。もっと苦しめたい。もっと私の痕を残したい。

『依存』『嫉妬』『独占』

 この『歪な黒い感情』を、お兄ちゃんにぶつけたい。


「ぁっ……!」


 途端にお兄ちゃんは弱々しく抵抗を見せた。人間の生存本能からなのか、足をジタバタさせて私の手首を掴んでいる手に力を込める。


「ダメだよ、お兄ちゃん……」


 でも、それは虚しく私の力を減退させるには至らなかった。

 次第にお兄ちゃんの身体からは、どんどん力が失われていく。抵抗もなくなり、私の手首を掴んでいたお兄ちゃんの手はズルズルと落ちていく。


「お兄ちゃんは、もう苦しまなくていいんだよ」


 お兄ちゃんの目も、次第に生気を失っていく。

 それでも私は力を緩めない。お兄ちゃんを確実に、この『苦痛』から解放させてあげるために。


「今まで、本当によく頑張ったね」


 やがてお兄ちゃんは虚ろな目をし、涙が垂れ落ち、脈もしなくなっていた。


「大丈夫だよ。私が傍にいるから」


 そっと手を離し、お兄ちゃんの唇に自分の唇を重ねる。でも、お兄ちゃんが反応を示すことはない。息をすることも、私を見ることも、身体を動かすこともない。


「私も、すぐにそっちにいくからね」


 次は、私の番。

 これで全てが終わる。


「…………」


 長かった。

 今までずっと、あらゆる弊害に邪魔されてきた。環境、概念、理性。ずっと自分の気持ちに嘘と言い訳を並べて誤魔化してきた。


 でも、それも今日でお終い。

 環境も、概念も、『理性』も何もかも縛られず、邪魔もされず、私たちは二人だけの世界に行って、永遠に愛し合う。


 そう思うと、不思議と死ぬのは怖くなかった。


「よし……」


 覚悟を決め、隠し持っていた大量の睡眠薬を取り出し、一つ一つ乱雑に喉に流し込む。飲み込んで、飲み込んで、気が狂う程ひたすら飲み込んだ。


 意識が朦朧とする。でも、まだ足りない。もっと、もっと飲まないと……。


 暴力的な睡魔が私を襲う。でも必死に堪えて、ひたすら睡眠薬を服用する。確実に、お兄ちゃんの元へ行けるように。


「はぁ……はぁ……」


 気がつけば、薬はなくなっていた。そして、強烈な眠気と共にやってくる目眩や呼吸困難。

 もう少しで、お兄ちゃんの元へ行ける。もう少しで、お兄ちゃんと二人きりになれる。

 あとは、この瞼を閉じるだけ。それで、全てが終わるんだ。


 目の前には、無気力に横たわるお兄ちゃんの姿。大好きで愛おしい、お兄ちゃんの姿。そんなお兄ちゃんの頬に、そっと手を添える。


「待っててね、お兄ちゃん……」


 大好きなお兄ちゃんの傍で、瞳を閉じる。

 その瞼が、永遠に開くことはないと信じて。

 私たちが、この苦しみから解放されることを信じて。


「ずっとずっと大好きだよ、お兄ちゃん……。愛しています」


 これからも、ずっと──。

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