5. 苦痛


 お兄ちゃんが引きこもった。


「お兄ちゃん、大丈夫……? 良かったら出てきてよ」


 お兄ちゃんのことが心配で部屋の前で声を掛けるが、返事はない。お兄ちゃんは私に対しても、心を閉ざしてしまった。


『…………』

「もう二日も何も食べてないでしょ? 少しぐらいは摂らないと……」

『…………』


 何度声を掛けようとも、結果は変わらなかった。それはまるで、前のような冷えきった関係のよう。


「……ごめんね、構ってあげられなくて。お兄ちゃんの気も知らないで……ほんとに、ごめんなさい」


 私の失態だった。お兄ちゃんがこうなってしまったのは、私がお兄ちゃんと距離を置いたから。


 上手く行き過ぎてるとは思っていた。少しずつ距離を置いても、お兄ちゃんはなんともなさそうだった。でも、お兄ちゃんは本当は寂しくて、構ってほしくて、甘えたくて、それでも我慢していた。

 ……よく考えればこうなることは分かっていたのに、どうして私は気づけなかったんだろう。

 自分が不甲斐なかった。


『…………』


 私はお兄ちゃんにひどいことをしてしまった。心から大好きなお兄ちゃんに。

 罪悪感でおかしくなりそうだった。

 それと同時に、私がお兄ちゃんのことを傷つけてしまった事実が、ひたすらに苦痛だった。


 私は本当に、ダメな妹だな……。


「お願い……戻ってきてよ……」


 そんな悲痛な願望が、お兄ちゃんの耳に響くことをひたすら願っていた。



 ───



 ベッドの上でただぽつんと座り込み、布団を目深に被っていたのは、一人ぼっちで無気力の私。

 ふとそこに目線をやれば、床に転がる小さなカッター。私を殺すには充分すぎる凶器が、ぽつんと静かに。


「…………」


 死にたい。でも、死にたくない。

 矛盾していることは分かっている。でも死にたいと思っていても、結局死ぬのが怖くて、躊躇してしまった。


 そんなどうしようもない私に襲いかかる虚無感。学校の人たちには裏切られて、妹には拒絶されて、死ぬことすらも許されなかった。

 不安、恐怖、絶望、後悔、そして失望。ありとあらゆる負の感情が、荒波のように私を襲う。そして自分ですら、私を否定し続けている。


 私は、何をやってもダメなんだ……。と。


 妹に迷惑をかけて、だから私は嫌われたんだ。誰からも好かれないんだ。すぐに捨てられるんだ。

 だから私なんて、さっさと死ねばいいのに。


 考えれば考えるほど、心が壊れていく。


『お兄ちゃん、調子はどう? って、いいわけないよね……。少しでもいいからさ、声を聞かせてよ……』


 ベッドの上で包まり続けてもう三日。

 私が引きこもってから、妹は毎日私に話しかけてくれる。

 きっと私のことを哀れに思っているだろう。じゃなきゃ、嫌いな私にこんな毎日話しかけてこない。


 妹の声を聞きたくなくて、耳を塞ぐ。それでも、妹の声は私の耳に微かに届いてしまう。


『……お兄ちゃん、戻ってきてよ…………』


 心の底から信じていて、大好きだった妹の声は、今の私にとっては心を抉る凶器。

 その事実がとてつもなく辛くて、そして苦しかった。


 早くいなくなって。ただひたすら願っていた。


 でも妹の声が聞こえなくなるのは、それはそれで嫌で、複雑な気持ちだった。

 どうしてそう思うのか、自分でもよく分からない。ただなんとなく、嫌だった。


『……ごめんなさい。鬱陶しかったよね……私もう寝るね! おやすみなさいっ……』


 どこか苦痛交じりの声を残し、それから妹の声が聞こえることはなかった。


「…………」


 ただただ、寂しかった。

 心にぽっかりと穴が空いて、それを今まで塞いでくれた妹がいない。とてつもない、孤独感。

 この期に及んで、私はまだ妹に執着しているのだろうか。本当に私は、妹がいないと生きていけない身体になってしまったのだろうか。


 妹は私を、裏切ったのに。


「…………」


 もう私は、ずっと一人ぼっちなんだ。


 そう考えるだけで、心が苦しくなった。締め付けられて、まるで誰かに握り潰されているようで。


「もう明日なんて、永遠に来なければいいのにっ……」


 そうすれば、これ以上苦しむこともなくなるのかな。



 ───



 ただただ、辛かった。

 私のせいで、お兄ちゃんが引きこもってしまったことが。私のせいで、お兄ちゃんが傷ついてしまったことが。

 でも、なんとかしてこの亀裂の入った関係を戻したかった。仲直りが、したかった。


「──ごめんなさい。鬱陶しかったよね……私もう寝るね! おやすみなさいっ……」


 何度も何度も話しかけて、挨拶もして、ご飯を作って。……でも、私の気持ちがお兄ちゃんに届くことはなかった。


「…………」


 お兄ちゃんの部屋の前で、ずるずると壁に沿って座り込む。

 どうすれば……どうすれば、お兄ちゃんは私を信じてくれるんだろう。どうすれば、前のようにお兄ちゃんは私のことを求めてくれるんだろう。

 それとももう、ダメなのかな。私たちの関係は、ここで終わっちゃうのかな……。


「っ……!」


 一粒の水滴が私の頬に伝った。

 この現状に、打ちひしがれてしまった。以前にも味わったはずの挫折感に、また自分を壊されていく。


 考えれば考えるほど、涙は止まらない。止まることを知らない。

 それでも、嗚咽だけは押し殺していた。お兄ちゃんに知られたくなかったから。


 私はどうすればいいんだろう。どうすれば良かったんだろう。


「お兄ちゃん……お兄ちゃんっ……ごめんなさいっ…………!」


 その一人言は、お兄ちゃんにも聞こえることなく静かに消え去る。


 私はただ、お兄ちゃんのことを助けたかっただけなのに。それが仇となって、この結末を招いてしまった。


 私は本当に、本当に本当に出来の悪いダメな妹だ。

 そんな自分が、昔から嫌いだった。

 でも、お兄ちゃんはそんな私を大切に思ってくれていた。


「お兄ちゃん…………」


 あの時──今の私たちの立場が逆だったあの時、お兄ちゃんはどうしてたっけ……。


 それすらも、私には分からなかった。



 ───



 どれくらいの時が経っただろう。

 一瞬のようにも思えたし、永遠のようにも思えた。


「…………」


 一人ぼっちの寂しさ、誰も頼れる人がいない辛さ、そしてそれに耐え続ける苦しさ。

 もうこれ以上、苦痛に蝕まれるのは嫌だ。


 でもどんなに嘆いても、妹が私から去っていた事実は変わらない。

 大好きだった妹が、どこか遠くへ行ってしまった。私を置いて、どこか遠くへと。私の手の、届かない所に……。


「……行かないで」


 消え入りそうな声と共に、虚空に向かって手を伸ばす。でもどんなに手を伸ばしても、妹が来てくれるわけじゃない。


 私が行かなきゃ、妹は戻ってこない。


 でも一度根付いてしまった恐怖心は、中々払拭されないもの。また拒絶されるのが怖かった。

 だから足が竦んでしまう。私を、この苦しみから逃れさせてくれない。それはまるで、私を苦痛から縛り続ける足枷。


「…………」


 私には、もうなにもない。

 このままずっと、孤独に生きていくんだ。

 誰にも愛されず、誰にも必要とされずに。


『──お兄ちゃん』


 ふと、妹の声が頭の中で再生され昔のことを思い出した。

 私があの子に、必要とされていた時のことを。


「……っ」


 無意識に今の自分と昔の妹を重ね合わせていた。

 今なら分かる。妹の味わった辛さが。妹の気持ちが。


 だから、行かなくちゃいけない。


 私はお兄ちゃんだ。姿形が変わっても、私はあの子のお兄ちゃんなんだ。


 私が行かなきゃいけないんだ。勇気を出さなきゃいけないんだ。かつて妹が、そうしたように。


 その足取りは、ゆっくりと私を運びだしてくれる。震える息を押し殺しながら、湧き上がる恐怖心を抑えながら。


 部屋の出入口。その取っ手を捻って、妹に会うんだ。

 頑張れ、私。勇気を出すんだ。


 妹と、向き合うために──。

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