嫌だ




 『花音かのん』店の地下一階の宿泊施設内の一室にて。


 もしかしたら。

 善嗣よしじの脳裏に嫌な予感が過った。

 もしかしたら、このまま徐々に記憶がなくなっていき、いつかは完全に消滅するのではないだろうか。


(嫌だ)


 善嗣よしじの顔色は一層悪くなるばかりか、身体も震え始め、発生した冷汗が止まらなくなった。


 嫌だ。

 嫌だ。

 嫌だ。

 他者から見れば、何か大きな成功を成し遂げたわけではなく、日々こつこつと、学業をこなし、職業をこなして来た、恋をしていなければ、遊んでもいない、つまらない人生だと思われるかもしれない。

 人生の転換期と言えるのは、ペガサスに一目惚れして、そのペガサスと一緒に旅をするという夢を持てた、このただ一度きりだけだ。

 だが果たしてこの転換期を、否、この転換期がなかったとしても、だ。

 今までの記憶は消滅してもいいなどと微塵も思わない。

 大切な己を形成する記憶である。

 その唯一無二の記憶が消滅などしたら、


(私は、私を、失ってしまう)


 嫌だ、

 嫌だ嫌だ嫌だ。


善嗣よしじ

「社長」


 日埜恵ひのえはヘルメットで顔が見えない。

 善嗣よしじにはもう、日埜恵ひのえがどんな顔をしていたのか、思い出せない。

 何の役職にも就いていない万年平社員だったので、社長である日埜恵ひのえの顔を見る事などそうそうないので、そもそもの話、まったく記憶に残っていなかったのだ。

 だが、それなのに、どうして。


「大丈夫だ。俺が全部まるっと解決してやっから」

「社長」

「そうだ!そしてわしも居る!」


 扉にへばりついて聞き耳を立てていたのだろう。

 呂々爺ろろやが扉を開けて突入してきた。

 ずんずんずんずん。

 勢いを殺さずに、善嗣よしじ日埜恵ひのえの元へと向かい、急停止しては傍らに立ち、胸を、胸に垂れる長いあごひげを大きく叩いては、大船に乗ったつもりでいろと言った。


「いやいや。無理でしょ。それは」

「なにをう!わしを誰だと心得る!わしは自衛組の一人「じゃないでしょうが」


 日埜恵ひのえは胡散臭い口調のまま、呂々爺ろろやの言葉を遮っては、言葉を紡いだ。


「おまえ。呂々爺ろろやじゃないでしょうが」











(2024.6.13)



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