第19話「看病と手料理」






















 服を着替える余裕もなく、ただ髪だけは軽く整えてマスクで顔を隠した状態で、


『助けて紗倉ちゃん……これどうやって入ったらいいの?おばさん分からなくて…』

「うん、わかった。今から下まで迎えいきますね」


 1階のオートロックの操作でつまづいた椿さんを助けに向かった。


「最近のマンションはハイテクなのね…」

「このくらい普通じゃない?」

「そうなのかしら…?紗倉ちゃんって、本当にお金持ちだったのね、びっくりしちゃった」

「金だけは腐るほどあるんですよ、昔から。とりあえずあたしの部屋行きましょ?」

「え、ええ」


 緊張した様子の椿さんを連れてエレベーターに乗り込んで、あたしの部屋の階は少し上の方だからお互い無言でしばらく待った。

 扉が開いて、廊下を進んで、玄関に入る。その間、一言も会話はなかった。正直、歩くのもしんどくて…話す気力も残り少なかったから助かった。

 ……それも、察してくれた椿さんなりの気遣いだったのかも。だとしたらやっぱ、優しすぎる。


「す、すごい…広いわね」

「え……そう?ただの1LDKだけど…」


 普段は用もないからあんまり使わない、対面式キッチン込みで20畳程度の広さのリビングへ連れて行ったら、椿さんは驚愕して目をパチクリさせていた。

 …こっちの部屋も掃除しておいてよかった。

 少し前までの汚い状態の部屋に招くなんてまじむりだから。寝不足のおかげで掃除できたのはよかったかも。

 ひとり暮らしには必要ない大きさのL字のソファに椿さんを座らせて、キッチンに置いてある無駄にデカい冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して持っていく。…家具や家電は嫌がらせみたいに親の金を使ってやったから、良いのを揃えてる。

 広さに慣れないのか、ずっとソワソワ落ち着きなく過ごす彼女を見て、気分と一緒に具合の悪さも少しは緩和された。


「あ……ご、ごめんなさい。具合悪いのに。気にしないで寝てていいのよ?」

「どうせ寝れないから。それより…ずっと気になってたんですけど」


 隣に腰を下ろしてようやく、あたしは椿さんの手にしていた大きめのレジ袋を指差した。


「それ、なんですか?」

「あぁ……これはね」


 説明がてら袋の中から取り出したのは…2kgのお米だった。


「おかゆ作ろうと思って。だから、台所お借りしてもいいかしら」

「あ……はい。全然、いいですよ…」


 思ってもなかった事に呆気にとられつつ、キッチンへと案内する。そこの広さにも驚いていた椿さんは、しばらく設備なんかを確認して感心していた。…反応が主婦っぽい。


「すごい……食洗機まであるのね」

「使わないですけどね、料理しないから」

「そう……私はありがたく使わせてもらうわね。食器なんかはある?」

「ひと通り…」

「料理しないのに揃ってるの、不思議ね」

「たまに雇う家政婦が使うから…」

「か、かせいふ?」

「え……うん。家事はほとんど外注してるんです」

「ほ、ほんとのほんとにお金持ちなのね」


 気後れした感じで言われて、自慢するわけでもなく「はい」とだけ答えた。

 ぶっちゃけ大半は親の金だから、使う時はとことん使う。親もそれを黙認してるし、むしろそれ以外にあたしにとって親の存在価値がない。…そんなあたしを、あいつらはもういないものみたいに扱ってる。

 金さえ出しておけば黙らせられると思われてるのは癪だけど、仕方ない。実際、金さえ自由に使えるなら文句もない。

 ……最後に会ったの、いつだっけ。

 それすら覚えてないくらいに、あたしと親の関係は希薄、もはやほぼ皆無と言ってもよかった。

 親の手料理なんて食べたこともなければ、具合が悪くなっても看病すらされたこともない。


「さ……作るから、紗倉ちゃんは寝てて?」


 そんなあたしに、髪を後ろでひとつ結びにまとめながら、椿さんはまるで母親みたいな母性溢れる笑顔を向けてくれた。


「……見てる」

「え?でも、体しんどくない?」

「へいき。ここにいるから、作って」


 そう言って、シンクのそばに座り込んで、壁に背中を預けた。

 最初はオロオロしていた椿さんも、作った方が早いと判断したのか、すぐに調理を始めた。

 お米を研ぐ姿を、それを土鍋に流し込んで慣れない最新式コンロを操作する動作を、包丁でネギを切る慣れた手つきを、気分が乗ってきたのか鳴らした鼻歌を、目で、耳で……取りこぼすことなく感じていった。


 …お母さんって、こんな感じなのかな。


 どこか温かさを感じる料理という作業はどんどん進んで、


「たまごは平気?アレルギーとか」

「……基本、好き嫌いもアレルギーもないです」

「うん、ならよかった。もうすぐ出来るから、待っててね?」


 たまに話しかけられる事に嬉しさを覚えて、そうしてる内に手作りのおかゆは完成した。

 さっそくそれを持ってふたりで移動して、


「熱いから……ちゃんとフーフーするのよ?」


 リビングのソファで、ガラスのローテーブルに置かれたおかゆを前に、あたしは感動して言葉を失った。椿さんの母親らしい言葉も、心打つひとつの要因だった。

 夢じゃない。

 目の前に、温かな手作り料理がある。お金も払ってない…のに。


 具合の悪いあたしのためだけに作られた、ご飯…


「おいし…そう」


 どうしていいか分からなくて、鍋に向かって彷徨う手を伸ばした。


「火傷しちゃうから……触っちゃだめよ」


 そのあたしの手を、僅かに手荒れした手がふんわりと包むように握った。

 情けなく掠れた声で「ごめんなさい」と小さく謝って、震えた手で木のスプーンを手に持つ。

 鍋の中にスプーンの先端を当てたら、ふわふわのたまごが絡み合った水分の多い……粒にもならない潰れたお米達が、とろりとした液体と一緒に木の窪みへと移った。

 風邪を引いててお腹も空いてなかったはずなのに食欲のそそられる光景を前にして、無意識のうちに溢れてきた涎を飲み込んでいた。


「い、いただき…ます」


 おそるおそる、湯気の立つそれを口元まで運ぶ。


「………おい…しい…」


 熱いけど、それも嫌じゃない。

 味付けは薄めで、香りも鼻が詰まっててあんまり分からなくて、食感はほとんどドロドロで……ほぼ液体みたいな感じなのに、ご飯らしいご飯じゃないのに、大きな多幸感と満足感を得て、自分で驚いた。

 ついつい次も、その次も口へ運んでいったら、目を細めて鼻から優しい吐息を漏らした椿さんが、あたしの汗で濡れて頬についた髪を指で持った。


「ゆっくり食べて?…熱いから火傷しちゃうわ」


 髪の束を耳にかけられて、そこでようやく夢中になって食べていた事に気が付いて羞恥心が湧き上がる。


「あ、う……うん、ごめんなさい…」

「足りなかったら追加で作るからね。…食欲があるみたいでよかったわ」


 このおかゆを目にするまで、食欲なんて無かったはずなんだけど……結局、あたしはその後もパクパク食べ進めてあっという間に完食した。

 ソファでボーッと余韻に浸っている間に椿さんは洗い物をしてくれて、キッチンの方から食洗機に歓喜する声が聞こえてきて、それが微笑ましくてひとり苦笑する。


「ほんとすごいわ…!洗い物しなくて済むって楽ね」

「はは…気に入ったなら、今度あたし買いますよ」

「あら。気持ちは嬉しいけど……我が家は狭いから置くところがないの。だから平気よ?」

「そっか……たしかに狭いもんね」


 でも…あたしはあっちの家の方が好き。

 ここもあたしの実家も、広いだけで何も良いことがない。むしろより孤独感が増すからきらいだ。


「うちは狭いけど……落ち着くでしょ?」


 狭いと言われても気にした様子もなく、どこか悪戯な顔で椿さんが言ってきた。


「……うん、また行きたい…」


 正直に伝えたら、今度は温和な微笑みに表情を変える。


「いつでも、遊びに来て?」

「…じゃあ今から」

「今はだめよ。ちゃんと休まなきゃ」

「えぇー……ここにいても、つまんなくないですか?」

「つまらないとかじゃないの。ほら…ベッド行きましょ?」


 ベッド行って何すんの?セックス?

 …なんて、いつもの下ネタ混じりの軽口は、椿さん相手だとなんでか言えない。

 おとなしく手を引かれるがまま寝室へと移動して、ベッドの上へひとり、布団の中へ潜った。椿さんはベッド脇に腰を下ろした。


「眠れそう?」

「……全然」

「じゃあ、お話でもする?」


 そう提案されたけど、あたしは何も言わず首を横に振った。


「……いてくれるだけで、いい…」


 本心を伝えたら、椿さんの口元が嬉しそうに緩んだ。


「それなら今日…泊まっていこうかしら」

「ガキ………紅葉ちゃんは?」

「泊まりに行ってていないから」


 あぁ…なるほど。

 だから夜、誰もいないって送ってきたんだ。

 あの小悪魔な誘い文句に納得して、それなら…と泊まってもらうことにした。


 風邪じゃなかったら……キスのひとつでもしてやったのに。


 その事を悔やみながら、あたしはそっと目を閉じた。








 









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