第17話「川の字」























 ダブルベッドの上で、大人が三人。

 川の字になって、寝転んだ。


「とんとんしてあげるね?」

「奥を?…いいよ、してして。大歓迎、あたしポ■チオ大好きだからさ、そこトントンされたら余裕で…」

「お、おく?ぽる…?」

「桃まじでやめて、お願いだから」


 あたしの胸に手を置いた無垢な楓をからかって遊ぼうとしたら、隣で体を横に向けて肘をついてる体勢の渚に低い声を出された。

 温かなふたりの体温に挟まれて気分の良かったあたしは渚に怒られたことを気にも留めず微笑む。


「ほら…早く寝て、桃」

「えぇ〜、この状況で寝るとかもったいないじゃん。やだよ」

「わたしもお話したいけど…今はだーめ。目つむって?桃ちゃん」

「目隠しプレイかぁ…それもアリ」

「め、めかくしぷれい…?」

「ほんとごめんなさい桃さん、そろそろやめてください」


 楓の柔らかな手が目元を覆って、不純な事ばかりを呟いていたら、いよいよ勘弁してくださいといった感じの渚の声が耳に届いた。

 それが楽しくてまた微笑んで、視界を塞がれたからおとなしく目を閉じる。

 真っ暗な、だけど怖くはない世界の中。


「ねんねしようね…桃ちゃん」

「おやすみ、桃」


 もう涙が出てきそうなくらい、優しいだけの声が鼓膜を通して脳に穏やかさをもたらす。

 密着したふたりの体があったかくて、胸と目頭を熱くしながら、思考は次第と朦朧としてきた。

 この三日、四日……ずっと来てほしかった睡魔が、簡単にあたしの頭の中へと姿を現して、そのまま眠りへと誘ってくる。

 ここ数日の努力はなんなんだったの?ってくらい。

 あっという間に、夢の中へと意識を落とした。

















 生まれてくる家庭が違ったら、心も体も綺麗でいられたのかな。


 夢を見る。


『おはよう、桃』


 お母さんみたいな椿さん…楓?どっちか分からないけど、とにかく美人な顔があたしに向かって穏やかに微笑みかけてくる。


『朝ご飯、作ったから。みんなで食べようね』


 狭くボロい家の中、食卓に並ぶ料理も質素なもので…だけどあたしにとっては、それが何より望んできたものだった。


 夢に見る。


 母親の、手料理。

 会話が絶えない、声と雑音のある食卓。

 誰かがいる、広すぎない家。


 あぁ…幸せ。


 愛情ってきっと、こういうことなんだ。


「おかあさん」


 母親って、きっと…


 薄暗い、だだっ広いキッチンに立つ後ろ姿に向かって、声をかけた。

 女が振り向く。

 あたしそっくりな、冷たい目をした女が。


『お母さんって、呼ばないで』


 まるであたしなんて見えてないみたいに、目線さえ合わせられないまま、拒絶する言葉を吐いた。


 …あぁ。


 バカみたい。


 そうじゃん。


 あたしは、愛なんて知らない。


 無いものを望むなんて、愚かだ。



「…桃」



 静かな声が、あたしを呼ぶ。


「桃ちゃん」


 かわいらしい声が、脳に響く。


「私がいるから、大丈夫」

「わたしも、いるからね」


 じんわりと、閉じた瞼では防ぎきれなかった涙が浮き上がってきて、体内に留めておけなかったそれが、目尻から滴り落ちた。


 もし……これを、愛と思っていいのなら。


 望んでなんかなくても、とっくに……


『気持ち悪い』


 自惚れそうだったあたしの、お花畑な脳内を現実に引き戻したのは……記憶に強く残る母親の、まるで汚物を見るような目と声だった。


 ハッとなって目を開ける。


 夢だけじゃなく現実でも泣いていたようで、涙が目尻から伝って耳や髪にまで絡まり落ちていて、少しの不快感にも顔を引きつらせた。

 動機がすごくて、心臓はバクバクと嫌な跳ね方を何度も繰り返しては、冷えきった血液が全身に巡ってる気がして、寒気がした。

 体中から、温度が引いていく。体温が下がりきる。


 気持ち悪い。


 吐き気からくる気持ち悪さと、自分に対する嫌悪感の気持ち悪さが混ざり合って、込み上げてきた嗚咽につられるように上半身を起こして、口元を手のひらで覆った。


「っう…ぇ」

「桃?」

「大丈夫?」


 背中を丸めてうずくまりながら、何も吐き出せないのに何かを吐き出したくて、何度も嘔吐く。

 そんなあたしの背中を撫でてくれたのは楓で、ある事を心配になったんだろう渚は、


「もしかして……妊娠…?」


 今、一番聞きたくなかった単語を投げてきた。


「っ…ちがう!!!」


 温かな空気とふたりの優しさを切り裂くみたいな、怒鳴りすぎて裏返った掠れた怒声で叫んで、ベッドシーツを両拳で殴りつけた。

 妊娠じゃ…ない。そんなはずない。

 冷静さを失ったまま、感情のままに、全身で否定したい気持ちで、頭を強く掻きむしるように抱えた。

 こわい。

 この吐き気の原因が、つわり…だったら。

 もしそうだとしたら、あいつと、同じ……あの母親と同じことを、あたしは…あたし、は…


「ちがう、やめろ…やめてよ……あたしは違う!」


 妊娠なんか、絶対しない。

 最近はセックスさえしてない。

 生理も来てる、だからありえない。

 妊娠、なんて。

 あたしの、この汚い体に命が宿るなんて……


 考えただけで、ゾッとした。


「出てけよ…」

「え…も、桃?」

「っ…ふたりとも出てけよ!!もう一生来んな!」


 追い出したかったのは、自分の中の不快感なのに。

 どこまでも救いようがなくてバカなあたしは、ふたりにその思いを八つ当たりの気持ちで、ボロボロ泣きながらぶち撒けた。


「ご…ごめん、桃。そういうつもりじゃなくて」

「うっさい!!はやくどっか行けよ!」

「も、桃ちゃん、落ち着いて?ほら、おいで…」

「触んな!!」


 抱き寄せてくれた楓さえ、今はその清い体温に触れるのが嫌で力加減なく肩を押して突き放した。


「いた…っ」


 押された勢いで、壁に背中と頭をぶつけた楓の顔が痛みに歪む。


「桃」


 後ろから渚の静かな声が聞こえて、さすがに血の気が引いて冷静さを取り戻した。


 あたし…なにして……これじゃ、ふたりに嫌われ…


「大丈夫」


 酷いことをしたあたしを、責めることさえせずに。


「大丈夫だから」


 渚は後ろから、包むように汚い体を抱き締めた。


「今は何があっても、ひとりにしないよ。嫌いにならない」

「っ……あ、なぎ…さ」

「だから抱え込まないで。何かあるなら話して」


 視界が、涙で滲む。


 何も、ない。


 あたしには何もないから、悩んでる。


 空虚な、感情と呼べるのかも分からない意味不明な何かを心に抱えたあたしは、渚の腕にしっかりと抱き止められて、


「わたしも。桃ちゃんのこと大好きだから…こんなことじゃ嫌いにならないよ。大丈夫」


 自分がぶつけて痛いはずの頭じゃなくてあたしの頭を撫でてくれた楓の手に身を委ねて、ただ泣き潰して暴れ尽くした。


 行き場のないこの痛みは、怒りは、嫌悪は、おぞましさは、いったいどこへ向かわせたらいいんだろう。


 どこにも居場所のないあたしの行き着く先は、どこなんだろう。


 ……椿さん。


 泣きながら頭に浮かんだのは、あたしと同じで男を知ってるはずなのに、あの母親と同じで子供を産んだ罪深くて身勝手な女のはずなのに。


 それでもなお、綺麗な……汚いあたしとは正反対な、彼女の姿だった。


 













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