第44話

「すっげえな、この車」

 マクシミリアンの私用車が、深夜のハイウェイを滑るように走っていた。時間が時間なので、どちらの車線にもほとんど車はない。


 ハンドルを握っているのはドナである。乗り心地の良さにずっと上機嫌だった。曰く、シートが破れていないような車を運転するのは初めてらしい。

「運転、できたんだな」

 助手席に座らされたマクシミリアンが感心したように言うと、ドナはその横顔にいつぞや見せたような悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「最近のかっぱらいは乗り物も使うんだぜ」


 ドナは真っ直ぐ前を向いて、楽しそうに呟く。

「どこに行こうか」

「……どこがいいんだろうな」

「じゃあ、あたしの母さんの故郷に行こうよ。名前は忘れたけど……どっかのでかい山の麓なんだってさ」


 彼女の人種的にも、恐らくドナが言っているのはアルプスだろう。こうやってロンドンのハイウェイを北上していてもたどり着けるはずがない。だがマクシミリアンは黙っていた。

 無粋なことを言って、この逃避を終わらせたくなかった。


「母さんがいつも言ってた。山羊をたくさん飼ってて、山に放牧させたらそいつらの首につけたベルの音が一日中カランコロンずっと鳴ってるんだってさ」

 ドナは夢見るような顔で続ける。マクシミリアンはただ、彼女の横顔を眺めていた。定期的に道路照明で照らされるその横顔は、次第に酷く神聖なものに見えてくる。


「教会の鐘の音よりもずっと綺麗で、今でも耳に残ってるって母さんがずっと言ってた」

 そしてドナは一瞬だけマクシミリアンの方を向き、笑った。

「どこにあるか分からないけどさ、行けばきっと分かるよ」

「……そうだな」


 それは、金星に衛星を建造することよりも、太陽系屈指の大財閥の主となることよりも、ずっとずっと、魅力的な提案に思えた。


 故郷などあるはずのない方向へと車をひた走らせるドナを、マクシミリアンはじっと眺めていた。浮浪者の少女が、眩しく見える気がした。

「なんだよ、あれ」

 不意に、バックミラーを覗くドナの声が険しくなった。マクシミリアンは身を起こして背後を仰ぐと、そこには一台のバイクが走っていた。猛スピードでマクシミリアンの車に追いすがっている。

「!」

 乗っているのはもちろん、彼のはとこだった。


 ヘルメットもせず、端正な顔を真っ直ぐにこちらに向けていた。マクシミリアンを射抜くような強い眼差しをしている。また、彼にしがみつくようにもう一人誰かが乗っているようだった。


「あたしらを追いかけて来やがったのか」

 ドナが舌打ちをしながら、慣れた仕草でブレーキを踏み込む。

 無理をさせたタイヤが嫌な音を立てながら、車は急減速する。一気にバイクとの距離が狭まり、バイクは車体を避けるためにバランスを崩す。


 あわや転倒というところで、バイクはブレながらも奇跡的に持ち直し、警戒しているのか今度は少し後方からついてきていた。

「くそ、コケろよ!」

 ドナが毒づく。バックミラーと前を交互に見る彼女の顔は、険しかった。


 マクシミリアンとドナがはじめて出会った夜の彼女の表情とよく似ていた。自分のためにそんな顔をさせていると思うと、マクシミリアンの胸がわずかに痛んだ。

 そして、彼女のはにかんだ笑顔を思い出す。花が咲いたような可愛い笑顔だった。

 それを想うだけで、心の靄が晴れる気がした。


 マクシミリアンはドナの必死の運転をよそに、フロントガラス越しの夜空を仰ぐ。既に朝が近く、東から少しずつ明るい色合いが混じり始めている。

 ロンドンは地上の光が強く、強い星でなければその光を視認することはできない。それでも、明けの明星――金星だけはその優美な姿を余すことなく空に浮かべている。


 ふと、弱音のように、すがるように、声が漏れた。

「今日は、金星が綺麗だな」

「……何言ってんだよ」

 突拍子も無いことを言ってしまったのだからその反応は無理もなかった。自分の感覚を拒絶されたのだと思うと勝手に喉の奥がむず痒くなってきた。

 だが、そんな感傷は一瞬で払拭された。ハンドルを握り、険しい表情をしたままのドナが、何気なく言ったそのことばで。

 

「星は、ずっと綺麗だったよ。あんたが、あたしを助けてくれたあの日から、ずっと」


「……ドナ」

 目を見張るマクシミリアンの横で、ドナは空を見上げもせずに言い放った。


「今まで、空を見上げる余裕なんて無かった。よそ見してたら自分の財布を盗られるようなとこだからな。でも、あんたのおかげで……あたしは、空を見れたんだ。青かったり暗かったり、月が動いたり。どれも、本当に綺麗だった」


「……」

 何かが胸の底から、浮き上がる。湧き上がる。

 マクシミリアンは初めて感じる奇妙な感覚に戸惑う。

 やがてそれの正体に気付いたとき、同時に、人生の目標を達してしまったことも悟った。


 求める、求められる。帰る、待つ。護る、護られる。そんな互いの関係のことを、陳腐かつ崇高な言い方をすれば――


 きっと、それが愛というのだろう。


 たとえ、ただの自己満足でも。

 数百の命を散らせ、数千数万の人々を悲しませ、それでも得られなかったものが、たった今いとも簡単に得られてしまった。

 マクシミリアンはこの瞬間、満たされてしまった。自分に足りなかったものに気付き、そしてそれを得てしまった。


「……止めてくれ」

「えっ?」

「車を止めるんだ」

 突然のマクシミリアンの言葉に、ドナは戸惑っている。だが、マクシミリアンは穏やかな声で彼女に語りかけた。


「頼む」

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