第28話
「おかえり、アイザック!」
昨日とは打って変わって、明るい『家人』の声。マクシミリアンは外の運転手にまで聞こえてしまったかと思いつつも、薄い笑顔で応じた。
「ただいま」
そしてマクシミリアンは玄関で朗らかに笑っているドナに向かい、コートではなくケーキの入った紙箱を差し出す。中身を知るとドナはやはり子供のようにはしゃいだ。夕暮れ時の薄暗い家が、華やぐようだった。
「コーヒー淹れてやるよ」
「ああ、頼む」
ドナは箱を大事に抱えながら、ぱたぱたと奥へと消えていった。ブルネットの髪が、まるで犬の尻尾のように楽しそうに揺れていた。
マクシミリアンはコーヒーの出来がいささか心配ながらも、楽観的に考えることにして自室で着替えてからキッチンへ向かった。
キッチンではまるで爆発しかねない科学実験でも行っているかのように恐る恐るといった様子で、ドナがコーヒーメーカーを操作しているところだった。
そして実験は成功したらしい。一仕事終えたとばかりにやりとげた顔をして振り返ったドナは、背後のマクシミリアンに気付き、そして頬をやや赤くして慌てて話題を逸らす。
「きょ、今日は早かったな」
「予定していた仕事が思ったよりも簡単に済んでな。昼はどうした」
「何もしてない。メシも食ってないよ」
ドナは何でもない風にそう言うと、側のテーブルにつき、頬杖をついて琥珀色の液体がしたたり落ちていく様子を眺め始めた。マクシミリアンはあらかじめ二人分のカップを用意した後、彼女にならって座る。
「よくそれで時間が潰せるな」
すると、ドナはふわりと微笑んだ。諦めの色の濃いその笑みを湛えた横顔は、幼さが消えていた。
「そういうのは、得意だよ」
自嘲するかのように、ドナは静かに口を開いた。
「母さんがね、人を家に入れて商売する人だったんだけどさ……その間あたしはずっと、隣の部屋でじっとしてたんだ。煩くするとクローゼットに閉じ込められるから、邪魔にならないように、音を立てないように、じっとしてた」
「……」
コーヒーが滴るようにぽつりぽつりと、ドナの独白は続く。
「何年か前、母さんが病気で死んじゃってから、一人になって……これからはいつどこで何をしてもいいんだと思ってても、何もできなかった。時間の使い方が分かんなくなってた」
急に大人びた表情になって遠くを見るように語るドナの横顔を、マクシミリアンはずっと見つめていた。そしてそんな雰囲気など払拭するかのようにぼそりと言った。
「……端末くらい好きに使っても構わないぞ」
するとドナは苦笑する。哀愁の雰囲気はあっという間に消え去っていた。
「いいよ、使い方よく分かんないし、なんか怖い」
「怖い、か」
「笑うなよ」
口を尖らせるドナをあやすマクシミリアン。それから天井の一方向を指差す。
「それなら本でも読んでいればいい。上のあっちの部屋が書斎になっている」
「……そっか。明日探してみる」
それきり、いったん会話が途切れる。その間ドナがどこか嬉しそうにしていることに気づき、マクシミリアンは少し身をかがめ、ドナの顔を覗き込んだ。
「どうした?」
目が合うと、ドナははにかむように俯いた。
「……アイザックに笑われても嫌な気分にならないなーって思ってた」
「それは、私が別にお前のことを馬鹿にしていないからだ」
「ハイウェイの下にいたときはさ、もうあそこにいるっていうだけで馬鹿にされてたから、なんか……嬉しいな」
コーヒーの香りに包まれるキッチンで、どこか恥ずかしそうに目を伏せる少女を隣に静かに過ごす――自分でも驚くほどの穏やかな時間が過ぎていった。
少女のそのはにかみに含まれた暖かい感情にもうすうす気付いてはいたし、むろん、それを受け入れることが許される身分ではないことも重々承知していた。
受け入れるつもりは無いが、それでも、もう少しだけ共に在ることだけは――
マクシミリアンは束の間の休息を、大事に大事に享受した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます