第22話
だだっ広い部屋に一人取り残されたレイオは、深紅の絨毯の感触を確かめるようにゆっくりと歩き、遮光処理のされている巨大な窓に向かった。
朝日が昇り始めているにも関わらず、灰色に変色した特殊ガラスのおかげで室内は優しい薄暗さで満ちている。だが、レイオは窓の側にあるコンソールに触り、遮光処理を解除する。
窓は瞬く間に透き通り、朝の光を余すことなく室内にもたらしてきた。
その眩しさに目を細めながら、レイオはアルフレッドの目で空を見上げる。
かつては霧の都市とも呼ばれたほど冬の大気の状態がよくないロンドンだったが、惑星一つの環境ををまるまる変えることすらできるようになったこの宇宙時代に、それはもはや、存在しない旧世界の代名詞となっている。
ガラス越しにも関わらず、冬の空は息を飲むほど蒼く澄みきっていた。うっすらと浮かんでいる雲に手が届きそうだった。
届きそうで届かないガラス越しの冬空の色。
レイオは憧憬の眼差しで、それを見上げ続けた。
それはレイオにとって、『外』の象徴だった。
◆
はっきりと覚えているのは、手の届かない高さにあるちっぽけな採光窓から見える空だけだった。
雲が泳ぎ鳥が横切る様を、ずっと見上げていた。
雨の日も、曇りの日も、雪の日も。
それはけして手の届かないところにある、『外』だった。
それ以外のことは、もうほとんど忘れてしまった。
毎日毎日ふわふわのドレスを着させられていたことは、おぼろげには覚えている。鏡すら無かったその部屋で、見えるものといえば窓ごしの空とビロードの海のような絨毯と、そして自分のドレスのフリルくらいだった。
ビロードはずっと変わらない。血の色をした海だった。
ドレスは毎日着替えさせられたが見ていても何も起きない。
窓だけが、毎日その様子を変貌させていた。だから、見ていた。
いつそこに来たのかも分からない。どれだけの期間空を眺めていたのかも分からない。
ただ、時折誰かの手を握らされ、鑑賞用の生物として高い塔の天辺の部屋に『在った』。
物としての静かで平坦な生活が破られたのは、ある晴れた日のことだった。
「人形……じゃねぇよな」
食事でも、着替えでも無い時間に、人が入ってきた。黒ずくめで、サングラスをしている大柄な男だった。小脇に何か抱えていた。招かれざる客であることはその風体で明らかだった。
そして、まるで品定めするかのようにじろじろと見られた。だが、もはやそんな視線に嫌悪を感じる心は持ち合わせてはいなかった。
血の色をした絨毯に、ふわふわのドレスを纏って座っているだけだった。
「よく分からんが、お前ここのお嬢様って訳じゃ無さそうだし、捕まってんだよな? どうせコレでべらぼうに恨みを買うついでだ。一緒に来るか?」
そう言って脇に抱えた書類を見やってから、黒い男はごく普通に、まるで転んだ友人を助け起こすかのように手を差し出してきた。
しかしそれでも全く反応しないことにやがて痺れを切らしたのか、男はサングラスを外し、そして身を屈めて覗きこんできた。
その瞬間から、『レイオ』の記憶は始まった。
一つ一つの出来事を、脳が記憶し始めた。
空の色がすぐそこに、手の届く距離にあった。
「……あ」
息を飲んだ。思わず、声が漏れた。
視覚が、目に映る映像が、初めて意味を持った。
「お、ようやく動きやがったな」
男はそう言って、にやりと笑いながらにじり寄ってきた。細められた目の中で、やはり空の色の瞳がレイオを見ていた。『外』が、そこにあった。
ふわりと、男のものらしき不思議な香りが鼻腔に届く。嗅覚が、蘇る。
「籠の鳥っつーか……金魚鉢の中の人魚だな。おい、息できてんのか? ま、こんなところで無口な子とコミュニケーション練習してる場合じゃねえな」
ぽんぽんと叩くように頭を撫でられた。触覚も、思い出したように彼の手の感触を脳に届ける。
「俺はザギってんだ。別に取って食ったりしねーからよ、行こうぜ」
彼の名が聞こえた。自分に名が無いことに初めて気がついた。
それから朗らかに笑いながら再び差し出された手は、暖かく、力強かった。
そのとき着ていたドレスが鮮やかな朱色――ヴァーミリオンだったことなど、レイオ自身は覚えているはずもなかった。
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