第18話

「遅ぇよ!!」

 深夜の帰宅で、『家人』からの第一声がこれだった。


 玄関先から庭どころか住宅街に漏れ出すほどの大声だった。だがマクシミリアンは動じることなく、ばたばたと走ってきた挙げ句に玄関で目を吊り上げて仁王立ちをするドナに、脱いだコートを押し付ける。

「ただいま」

「!! ……………お、かえり」

 途端に目を白黒させ、素直にコートを受け取ってしまうドナ。

 よほど言い慣れない、言われ慣れない言葉だったのだろう、怒りなどどこかへ吹っ飛んでしまったようだ。ドナはマクシミリアンの重い革のコートを抱えたままでおろおろしている。


「そこに掛けておいてくれ」

「わ、分かった」

 気を取り直したドナが再び怒り出したのは、マクシミリアンが悠々と夜会服から部屋着に着替えて、さらにキッチンでコーヒーメーカーのスイッチを入れている頃だった。

 丁寧に五分かけてコートを掛け終えたドナは、今度はキッチンの入り口で喚き出す。

「じゃなくて! 困ったんだぞ! 起きたらあんたが居なくて、鍵とかどうなってるか分からないし、出て行っていいのか悩んだんだぞ!!」


 かっぱらいにしては殊勝な言葉だった。家を出るときに腕時計の一つや二つはくれてやる覚悟をしていたのだが、どうやらこの少女は律儀に家の中でじっとしていたようだ。

「家を出る前に起こそうかとも思ったんだが、客間を覗くと随分と熟睡していたから起こしたら悪いと思ってな」

「――!」

 すると再び怒りが引っ込み、今度は僅かに頬を赤らめている。その反応が面白く、マクシミリアンは思わず苦笑した。次第に手の掛かる野良猫を拾ったような気分になってくる。


 暖房は入れていないようだが、人が一人居たというだけで、帰ってきたこの家には温もりがあるような気がした。それが、マクシミリアンの気を随分と緩めさせているようだった。

「風呂には入ったか? 食事は?」

「そ、そんなの何もしてねーよ。出て行くつもりだったんだからさ」

 そしてもじもじするドナ。言いにくそうにごにょごにょと呟く。

「あ……でも昼メシはその、勝手に漁って食っちまった。夜は、まだ」

「つまり昼に起きたのか」

「……」

 顔がさらに赤くなる。図星だったようだ。そして、ぐぅと小さく彼女の腹が鳴った。慌てて、マクシミリアンの目から隠すかのように手で腹を覆うドナ。

「あ、あんたがメシのことなんか言うから……」


 見ていて可哀想に――可哀想ながらも微笑ましくなるような様子だった。マクシミリアンはあまり凝視してやらないようにしながら、できあがったコーヒーを啜る。

「私も夕飯はまだだ。今からで良いなら用意してやるが」

「!」

 その瞬間ドナがぱっと顔を上げる。相変わらず、子供のようなきらきらした眼差しをしている。言葉による返事など必要ないほど分かりやすい反応だった。

「それと……これからしばらく仕事が忙しくなる。朝は早いし夜も遅い。お前が朝に起きてくれないのなら、追い出すことができないな」

「……それって、もしかして」

 すぐに彼の言わんとすることが分かったのだろう。目を丸くするドナにマクシミリアンは僅かに微笑む。思ったよりもずっと律儀で聡い娘だったことがマクシミリアンには面白く思えた。


 本当はオートロックなので鍵など使う必要は無い。普通に扉を開けて出て行ってくれればそれで良い。だが、マクシミリアンはそのことについては言わないつもりだった。

 『人の居る家』があまりに久しぶりだったので、もう少しそれを味わっていたくなったのだ。


 ◆


「もしかしたら私は、人の世話を焼くのが好きなのかもしれない」

「かもしれないって……変なの。好きとか嫌いとかってすぐに分かるもんじゃないか」

「そうだな」

 マクシミリアンの呟きを聞きつけたドナが首を傾げる。彼女は大人しく食卓につき、彼が簡素な夕食の用意を始める様子を見ていることにしたようだった。

 深夜のキッチンに卵の焼ける音がじわじわと広がっている。睡眠時間が削られているのを感じながらも、マクシミリアンはついつい手抜きをせずに唯一の得意料理を彼女に振る舞うために腕をふるっていた。


「そういやさ、あんたの名前まだ聞いてなかったよね」

「……アイザック、だ」

 ドナの何気ない問いにマクシミリアンの手が止まったが、その一瞬の躊躇にドナが気付いた様子は無かった。

 彼女が忌み嫌っているらしき金持ちの象徴にも等しいラムゼイの名を名乗るのが躊躇われたため、咄嗟に適当な偽名を名乗ってしまった。


「そっか。アイザックか。夕飯楽しみにしてるよ、アイザック。もう匂いだけでたまんない」

「卵を焼いているだけだぞ」

 誰かのために何かをするのは久しぶりだった。自分の手元に注がれているい腹ぺこの少女の視線の強さに、柄にもなく口元が緩んでいるのが自分でも分かる。

 明日からの仕事はやはり山積みだったが、マクシミリアンは久しぶりに『自分が本当に欲しているもの』を思索するのを再開しようかという気になっていた。


 ラムゼイの妾筋として――本家筋の予備として全てにおいて日の当たらぬ中途半端な扱いを受けてきた彼が、ヴィーナスムーンという賭けに勝って日向に躍り出て、そして結局日にあたりたかったわけでは無いと気づき落胆してから10年が経っていた。

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