第17話
堅気の人々は寝床の中で翌朝への気力を養っているような時間。
気付けば、アルフはムーンベースの41番ドックの前に一人で立っていた。
当然そこにもアルフ以外の人影は無い。余程の急ぎで無い限りエンジニア達も夜には働くことはない。
アルフはそっとドックに入った。巨大な空間に、足音が寂しく響く。まるで靴が鉛になったかのように、アルフの足取りは重かった。
そして眼前に鎮座している朱色の人魚を見上げ、アルフはしばしの間逡巡する。頭の中では、ロンドンでの出来事がぐるぐると巡っていた。
――40万キロほど移動したというのに、どうやって帰ったのか、覚えていない。ただひたすら、自分の記憶から全てが僅かに変貌している10年後の世界から、逃げるようにしてここまで戻ってきた。
レイオのカードを使って、だ。
「……」
アルフは唇を噛む。痛みではなく、悔しさから表情が歪む。
何も出来なかった。
ロイヤルオペラハウスのエントランスで、美しく成長したアイリーンが自分の姿になったレイオを人ごみの中から引きずり出したとき。
彼女がレイオのことをお兄ちゃんと叫ぶように呼んで、しがみつくように抱きついたとき。
驚いた連れの男が警察を呼んだとき。
大騒ぎになる中で、ひたすらレイオを兄と思い、庇って抱き締めるアイリーンを見たとき。
「自分が本物のアルフレッドだ、そこに居るのは別人だ」――そう言って人々が注目する中に飛び込み、矢面に立たされているレイオを少しでも庇うことはいつでもできたはずなのだ。
でも、できなかった。勇気が出なかった。
数十人の注目する前で、まるで指名手配犯のように警察に連れて行かれたレイオを、見送ることしかできなかった。
自分がやったことと言えば、唆したことだけ。何一つ自分の手では行っていない。
大それたことなど、何も出来なかったのだ。
帰路の記憶はほとんど無いが、ロンドンのステーションどころかあらゆる場所で「ラムゼイの王子、帰還」という速報が流れていたことだけは心の痛みを伴ってはっきりと覚えていた。それらから逃げるように、アルフは顔を隠しながらひたすらロンドンから、地球から遠ざかった。
カメラが捉えたアルフの映像の後は、決まってヴィーナスムーンの事故当時の記録が放映された。
いかにも他人事で、既に済んだ過去の出来事という扱いに、悔しくて、叫びたくなった。
――俺の両親が死んだんだ、殺されたのかもしれないんだ!
けれど、アルフにできたのはただ顔を隠して歩くことだけだった。
そうこうしているうちに、アルフはいつの間にかヴァーミリオンローレライの足下まで辿り着いていた。そしてその優美な佇まいを見、改めて逡巡する。
乗降口はもう手を伸ばせば届く距離にあった。教えて貰ったロックの解除コードも覚えている。あとは中に入って、「お宅のレイオさんを勝手に連れ出し、勝手にロンドンまで行って、勝手に能力を使わせて利用した挙げ句に彼女は警察に連れて行かれてしまったので一人でここまで戻ってきました」と言うだけだ。
逃げ続けてきたアルフだったが、どんな罰を受けることになっても、それだけは言わなければならない。それは分かっているのだが、やはり手が動かない。
アルフが自分の不甲斐なさに絶望していた、そんなとき。
『や、遅かったね』
「!!」
突如乗降口横のスピーカーから眼鏡の青年の声がした。そして先手を取ったかのようなその声と同時に、親切にも乗降口の扉がするりと開く。出鼻をくじかれたアルフは思わず二歩ほど後ずさりする。
「……あの、俺は――」
『おかえり、待ってたんだよ。早く入りなよ』
「……」
結局、好意的な響きであるにも関わらず有無を言わせぬ圧迫感のあるその声に無理矢理背を押されるようにして、アルフはゆっくりと船内に入った。
最低限の照明しか点いていない薄暗い船内は外と同じく静まり返っていた。元々三人しか乗っていない船だ。一人足りないだけでも、随分と静かになる。紅一点の彼女が居ないのだからなおさらだろう。
目指すのは、操縦室。目覚めて最初に飛び込んで以来、何度も訪れている思い出深い場所だった。
深夜にも関わらず、操縦室には煌々と灯りが点っていた。アルフは数秒の間立ち止まったが、裁判にかけられる被告人のように、ゆっくりとその光の中へ入っていった。
光の先には、二人の男が居た。もちろん、ザギとジリアンだ。操縦室に入ってきたアルフの方を向き、二人とも、優しい笑顔を見せている。
「おかえり、レイオ。大変だったみたいだね」
「遅いじゃねえか、おかげで久しぶりに二回も外食しちまったぞ」
「――!」
暖かく不自然な言葉をかけられたその瞬間、ローレライに入る前から感じていた小さな違和感が、ぱっと弾けた。
「さ、もうそんな格好してる必要ないよ」
「ほれ、さっさと戻れよ」
そう言って、二人はそれぞれアルフに向かって手を差し出してきた。
「いや、俺は――」
「大変だったね、ラムゼイの女王様と握手したんだって?」
「ま、坊やの感動の再会も済んだようだしもう俺らには関係ないけどな」
アルフの言おうとしていることなど聞こうともせず、ザギもジリアンも不自然なほどの笑顔で、アルフが彼らの手を握るのを待っている。
先程からアルフの心臓が、嫌な音を立てて跳ね続けている。
二人は、気付いているにも関わらず、アルフをレイオとして扱っているのだ。
「……」
とても酷い方法で、試されている気がした。
逃げ出したいと叫び続けている臆病な心を押さえ込み、アルフは握りしめていた手を開き、ゆっくりとザギのそれに重ね合わせた。
そして、手を触れ合っても『変わらない』様を、はっきりと二人に示してみせる。
暖かい言葉とは裏腹に、ザギの手はとても冷たかった。
「……俺は、アルフレッドだ」
罪を認めるかのように重く宣言した瞬間、二人の顔から笑みがすとんと落ちるように消えていった。気温が下がったかと錯覚してしまうほど、その変化は急激なものだった。
アルフの手をぽいと振り払ったザギが、いつも通りの無愛想な顔に戻る。そして、唇を噛み締めているアルフに向かって、先ほどまでとは打って変わって険しい声を発する。
「ま、茶番はここまでだ。さっさと話を聞かせろ。それと後で五発くらい殴らせろ」
だが、その方がずっと、安心できる態度だった。アルフは彼等がようやく正当な反応を――怒りを示してくれたことに内心で安堵する。
「あ、僕にも二発分くらい頂戴よ」
「てめーに殴られるくらいなら虫に刺された方がいてぇよ。俺がその分やってやる」
場の雰囲気を読まないジリアンの合いの手も相変わらずだった。
アルフはこんな状況にも関わらず、ようやく、人心地がついた気がした。
別の世界にいるような実の家族の姿を見たときよりも、安心できた。冷たく凝り固まったままどうにか脈打っていた心臓がゆるゆると溶けていくような感覚に、数秒の間身を委ねる。
そして、深呼吸して、口を開いた。先ほどまでの緊張など嘘のように、自らの過ちを、企みを、全て正直に話すことができそうだった。
◆
「この船で気付いてからずっと、考えてたことがあったんだ。俺の両親と、技師達を殺したのが誰なのかって」
「あれは連邦の調査も入って正式に事故って断定されたはずだけど、誰かの差し金だったってこと?」
ジリアンの言葉に頷くアルフ。一方のザギは逆にアルフを促すように黙っている。
「いや……事故もあいつの仕業かもしれないけど、そもそもあの日システムに不具合が出るかもしれないってのは、ずっと前から言われてた。そんな日にわざわざ建造中の衛星に本社の連中が視察に行くなんて、普通なら考えないよな」
アルフは二人と向き合いながら、一言一言を噛み締めるようにして事情を話していく。
「それで、思い出した。先月……事故の前の月に、少しだけ聞いたんだ。本社に来てたヴィーナスムーンの責任者に向かって、オープンを前倒しにするために工期を急かしてた奴が居た。結局工期は早まって、そのせいで全部のスケジュールがずれて……俺達はあの日にプレオープンの視察に行かざるを得なくなった。システムダウンの可能性だって、『作業員が働いているんだから上の人間が恐れているところを見せるわけにはいかない』って……」
アルフはそのときのことを思い出す。おぼろげな記憶の中で、その低い声だけははっきりと響いてきた。
現実には10年前、アルフの記憶の中では一月前。アルフもアイリーンも学生だったため、日頃は本社になど出入りしたりはしない。だが、その日は特別に一族揃って食事をする日だったため、アルフは本社の中枢フロアに入らせてもらい、皆が揃うまで時間を潰していた。
そんなとき、聞こえてきたのだ。
それは、ほんの二言だった。
通路の角の向こう側で。
建設部門の真面目な責任者に向かって、何気なく、しかしどこか強制力のある声色で。
まるでその言葉がラムゼイの総意であるかのように。
『総帥はもうご高齢だ』
『彼の誕生日にオープンできると良いのではないか』
「そいつは、ヴィーナスムーンの視察に、アイリーンと一緒に遅れて来る予定だった。
父さんと母さんと……爺ちゃんが死んでから、アイリーンがラムゼイの当主になって……今そいつは、アイリーンの後見人みたいな立場でラムゼイのトップにいる。俺はレイオの変化次第で、そいつを殺すつもりだった」
ラムゼイでありながら、ラムゼイを憎む人物。
アルフはある男の姿を思い浮かべる。ロイヤルオペラハウスのエントランスで見た彼は、10年前と変わらず、どこか冷めた顔をしていた。
そして、アルフは断罪するかのようにその名を告げた。
「マクシミリアン・ラムゼイ。俺達のはとこで総帥秘書だった……今は、アイリーンの婚約者だ」
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