第16話
開演時間まではまだ時間があるが、噂の女優は未だに到着していない。色紙や花束、カメラを抱えたファン達のざわめきは大きくなる一方だった。夜のロンドンは凍り付きそうなほど冷え込んでいるが、そこだけは熱気に包まれている。
一方で、日頃は張られていないロープと人だかりにおっかなびっくりという様子でエントランスを上っていく一般客達も増え始めた。
レイオは手を使わずに、どうにか人だかりの中を進んでいった。半ば無理矢理肩で割り込んでいったので、時折怨嗟の声が背後からかけられるが、気にせず最前列の一歩手前まで進む。熱烈なファンとでも思われたのだろう、引きずり戻されるようなことは無かったが、何故か左右の人からライバル意識のようなものが込められた視線を突きつけられた。近くには報道のカメラも陣取っており、レイオは極力そちらには顔を見せないようにしながら、前を通る人々の顔を確認していった。
眼前ではフォーマルな装いの人々が、左右を見渡しながら歌劇場へ入っていく。レイオはフードを被り直し、目当ての人物が来るのを待つ。
――王立歌劇場の前で、その日訪れる人物の手を握って欲しい。
かび臭いムーンベースの路地裏でそう頼まれたとき、レイオは断ることができなかった。
その人の愛する人物を知りたいのだと、依頼人――アルフは切羽詰まったような眼差しで自分を見つめていた。
アルフの前で妹の姿になったように、幻色人種が変貌するのは『その人物がその時点で一番求めている人』であって『愛する人』とは少し意味が異なるとレイオは一応注釈したものの、それでもいいからとアルフは頼み込んできた。
幻色人種は弱気で何も断ることのできない種族と言われてはいるが、レイオは嫌なこと、やりたくないことくらいはしっかりと断ることができる。それでも、両親を失った末に一人で10年後の世界へ放り出される羽目になった彼のことを考えると、やはり無碍にすることなどできなかった。自分が役に立てるのなら、できることなら何でもしてあげたかった。
そのとき不意に、まるで蝋燭の火が掻き消えるかのように周囲のざわめきが止む。
「!」
思考に沈んでいたレイオは慌ててパーテーションロープから身を乗り出し、皆の視線の焦点を確認する。
そこにはちょうど、女神のエンブレムを戴いた黒い車が滑らかに停車するところだった。あたりは静まりかえったままである。ファン達の息を飲む音が聞こえてくるようだった。
だが、開いたドアから出てきたのは、身なりの良い一人の男だった。誰かががっかりした声で呟く。
「……違う」
そこには彼らの目当てだった美しい女優は居なかった。数十人の溜息が唱和する。
しかし次の瞬間、再び彼らは静まりかえることとなった。
男に次いで、彼らの失望の声を黙らせるに余りあるほどの気配を纏った女性が、エントランスに降り立ったのだ。目当ての女優ではないにも関わらず、誰もが固唾を飲んで彼女の登場を見守っていた。
「……ラムゼイの女王だ」
感心したような声がどこからか漏れる。
――来た。
彼女こそ、レイオとアルフの目当ての人物だった。
レイオは顔が見えなくなるほどフードを引き下げ、最前列の人に隠れるようにして機会をうかがった。
先に出ていた男にエスコートされ、左右の人だかりに動じることなく、その女性はゆったりとエントランスを進んでいく。
その姿は女王と呼ばれるのも納得できるほど、美しく、気高かった。金色の豊かな髪に、青い瞳。まるで彼女が今夜の主賓のようだった。
アイリーン・M・ラムゼイ。ラムゼイの直系の彼女は、二十代半ばにして既にグループを統べる立場にある。若すぎるため、経営の手技に関しては賛否両論ある彼女だが、頂点に立つ者として備えている威厳と気品は、誰もが認めるものだった。
濃紺のカクテルドレス姿で素手を露わにしている彼女を見て、レイオは胸をなで下ろす。手袋をされていると元も子もないからだ。
アイリーンと連れの男は、レイオの目の前を通過しようとしていた。レイオは意を決して握りしめていた手を開き、そしてパーテーションロープの向こうに突き出す。
「……?」
ふわりとアイリーンの視線がレイオの方に向く。仕草一つをとっても優雅なものだった。フードで隠した顔を極力見られないようにしながら、レイオは彼女がその手を――『女優と勘違いして手を出してしまった慌てん坊』の手をラムゼイの女王が握ってくれるのを待った。
アイリーンは少しの間レイオを眺めた後、恐らくは営業用であろう微笑みを浮かべて、レイオの手をそっと握った。
触れ合った部分から、まるで水のようにアイリーンの想いが流れこんで、そしてレイオの全身に浸透した。
その瞬間、レイオは『変わった』。
溶けるような、浮かぶような――言葉では言い表せない感覚がレイオの体を包み、そして一瞬の後、眠りから覚めたかのように新しい視界が開ける。
変わった相手の背丈がレイオとさほど変わらない人間なのが救いだった。少なくとも、いきなり体格が変貌して怪しまれることはなかったからだ。
これでアルフからの頼まれ事は無事に果たすことができた。あとは離れたところで待っているはずのアルフの元に戻り、この姿が誰のものかを確認するだけだった。
レイオは未だに来ない女優を待ち続けているファンの間に割り込むようにして後ずさりする。
だが、誤算が一つだけあった。
「あなた……!?」
手は、未だに握られたままだったのだ。
「!!」
めいっぱい手を引いても、アイリーンはレイオの手を離してくれなかった。予想外の力強さだった。黙って成り行きを眺めていた周囲の人々も、その引っ張り合いを見て何事かとざわめき始める。
レイオは顔を見られないように俯きながら、懸命に後ろに下がろうとする。だが、まるで綱引きのように、アイリーンはレイオの骨張った手を離さず、そして自分の方へと引きずろうとしていた。
『変わった』ところを見られたのか――レイオはどうにか踏ん張りながら必死で何がまずかったのかを考える。だが、不意にフードの下から垣間見えたアイリーンの顔を見て、自分の考えが根本的に違っていたことを悟る。
「あ……」
アイリーンはレイオの顔ではなく、その手を見ていたのだ。シミ一つない、だが明らかに男の手と分かるそれを、アイリーンは凝視していた。
その手を見ただけで誰なのか分かるというほどに。
「――!!」
それに気付いたときには、レイオは既に彼女に引き寄せられてしまっていた。
パーテーションロープを引っかけるようにして、レイオは転倒する。
ドレス姿であることなどお構いなしに、すかさずアイリーンがその体を受け止めた。そしてフードがとれて露わになったレイオの顔を見て、あっという間に目に涙が溜まっていく。優美な表情が掻き消え、まるで少女のような泣き顔が現れる。
数十人という視線が、そしてカメラのレンズがレイオとアイリーンに集まっていた。まるで立ちはだかる壁のように周囲を取り囲むそれらに気圧され、そして眼前の美女の抱擁からも逃れられず、レイオは呆然とそこに居ることしかできなかった。
「……お兄ちゃんッ」
オペラも、周囲の人々も、エスコートしてきた男も、そして、ラムゼイの女王としての威厳も。全てを放り出して、まるで、迷子の子供がようやくぶりに親を見つけたかのように。
『その人物がその時点で一番求めている人』――アルフレッドの姿になったレイオは、アイリーンに強く強く、抱き締められていた。
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