第13話
「ムーンベースは初めてだよね?」
弾む足取りのレイオが、後ろを歩くアルフを振り向きつつ言った。その手には小さな鞄の柄と買い物リストのメモ用紙が握られている。アルフは頷いて見せる。
「ああ。どんなところか話に聞いてはいたけど、凄いな」
ムーンベースは月の北極部分の巨大なクレーターを利用し建造されたドーム型都市だった。
またの名を技師の町、さらには無法都市とまで呼ばれるこの都市は、その名の通り月に通信塔を建てる技師達が築いた町である。電波の強さを盾に自分達の力で自治権を勝ち得た技師達は連邦政府の干渉を受けない自由な都市をこのクレーターに据えたのだ。ムーンベースの周囲には通信塔は少ないため、電波による障害はほとんど無い。
無法都市と言われる所以もそこにある。連邦政府の手が届かないのをいいことに、政府から追われていたりよからぬ思想を持っているような輩が月へ逃げ込み、大量に潜伏していると言われているのだ。
実際にジリアンが不正アクセスなどの多数の罪で連邦政府や地球の各国から追われる身であり、彼が乗っているヴァーミリオンローレライ号も正式に寄港できるのはこのムーンベースだけとのことだった。
着陸の翌日、レッカー船によりドックインした後、ヴァーミリオンローレライ号は演算系だけでなく外壁なども点検することになり大わらわとなっていた。ただ船自体のことには関わっていないレイオは食事の準備かコーヒーを淹れるくらいしか仕事が無いため、暇なうちに買い出しに行くことにしたのだ。
ザギが小遣いとお遣い代としてレイオのカードに入力した金額を横目で確認したアルフも、彼女についていき荷物持ちをさせてもらうことにした。
ちなみに、船がムーンベースの1G重力圏に入った瞬間、アルフはそれまでの数倍の重力に耐えきれずにその場に転倒し、ザギとジリアンから指差されながら笑われてしまった。それを見たいがためにわざわざ重力圏の境界を教えてくれなかったらしい。
意識の上では10日ぶり、実際には10年ぶりに踏む地面は、硬質な鋼だった。
船内の表示で知ってはいたものの、外から改めて自分で目にするヴァーミリオンローレライは滴型の優美なフォルムをした、美しい船だった。全長は50メートルほど。『朱色』と名がつく割にはただの鋼色ではあったが、『人魚』というのは納得の行くかたちだった。
その人魚は今、数人の作業員によって鱗に傷が無いか丹念に点検を受けている。
「41番ドック、覚えておいてね」
ドックから出るときに、レイオは扉に赤い文字で刻印されている番号をアルフに示しながら言った。作業機械搬入のための巨大な扉の脇に、それと比べるとまるでペット用のような人間用の出入り口がある。
「もしはぐれても、ここに戻ってくれば良いから」
造られた当初は文字通り『基地』だったこのムーンベースだが、今となっては直系150kmを越えるクレーターをすっぽりと覆うまでに拡大しており、その半分以上はプラントや宇宙港などに利用されていることを考慮しても、一大都市と言っても過言でないほどの規模を誇っている。地理を把握しないままで下手に迷えば元の場所に戻ることは困難だろう。
「まずは軽いものから買いに行くよ。『てぶくろ』屋さんが近くにあるの」
「その手袋ってのは何なんだ?」
41番ドックを出て、港を周回しているトロリーに乗りながら、アルフは買い物で心を弾ませているレイオに訊いた。先日も手を握るときにてぶくろがどうのと言われたのだが、『手袋』と言われても、レイオの手は何も履いてはおらず、滑らかな肌があらわになっている。
すると、レイオは周囲の乗客の目をはばかりながら、右の手首の内側をそっとアルフに示した。よく見ると、小指側に小さな黒子があった。
「本当の名前は疑似皮膜。今の私の手は、もう一枚皮膚を被せてる状態なんだよ」
そう言って、レイオはその黒子を指した。
「これがそのスイッチみたいなもの。ここに機械をあてて、つけたり外したりするの」
しみ一つない滑らかな肌の上にぽつんと乗っているそれは、確かによく見ると黒子とは思えぬ違和感があった。アルフが感心してほうと吐息をつくと、レイオは満足そうに笑った。
「いつもはこれをしてるから、誰かに触れても『変わらない』の」
「……なるほどな」
数百あるという中で、41番ドックはそれなりに良い立地にあるらしかった。トロリーは程なくして終点へ到達し、アルフ達よりもずっと前から乗っていたらしき客がくたびれた様子で降りていくのを尻目に、アルフとレイオは軽やかにムーンベース都市部へと降り立った。
空が鈍色のドームで覆われており、ところどころに巨大な支柱が立っているという点以外は、ムーンベースはごく普通の都市だった。宇宙港を一歩出ると、そこには道路が整備されており、人も車もせわしなく行き交っている。グリニッジ時刻は午前だったが、太陽光の代わりにドームの天井から無数の光が降り注いでいた。
その予想以上の規模に驚いているアルフは、レイオに引き連れられるようにして疑似皮膜を扱うという店に向かうことになった。お上りさんもかくやというほど上を見たり下を見たりしているアルフに、レイオは苦笑する。
「賑やかでしょ」
「……ああ。火星とイオには行ったことがあるんだが、ここが一番地球に似てるかも。テラフォーミングされた星って、何もかも規則的だからな」
そしてレイオは宇宙港近くの薄暗いビル街の袋小路にアルフを誘う。だが、アルフは足を止め、そして楽しそうに歩みを進めているレイオを呼び止めた。
「ごめん、買い物のところ悪いんだけど、ちょっと、手伝ってほしいことがある」
「……うん?」
アルフを案内すべく数歩先を歩いていたレイオは、くるりと振り返った。黒髪をふわりと揺らしながら、レイオは澄んだ瞳でアルフを見てくる。アルフのことを、微塵も疑っていない様子だった。
言うべきこと、やるべきことをいったん反芻し、レイオの目を真っ直ぐに見つめながら、アルフは計画を実行に移す決断をした。
今しかないと思っていた。
このまま彼女に流されて買い物に付き合い、重い荷物を持ち、そしてほくほく顔でローレライ号に戻る――そんな選択肢もあるにはあった。だが、その逃避のような選択肢が魅力的であればあるほど、アルフは逆にもう一つの選択肢への意志を強くする。
良心の呵責などは、意図的に腹の底に押し込めた。それでも、指先がじわじわと嫌な感じにうずく。分別の無い子供であれば、癇癪を起こしてそこらの壁でも叩くことが出来るのにと思いながら、アルフは掌に爪痕がくっきり残るほど拳を握りしめる。
これから、アルフは一瞬で味わわされた10年分の憎悪をはらすべく、復讐をしに行くのだ。
殺人者になり得る覚悟をして、しかし決してそれを表に出さないようにしてアルフは言った。
「地球で、やらなきゃいけないことがあるんだ。手伝ってほしい」
頼み事を断ることの出来ない優しい幻色人種は、やはり首を横には振らなかった。
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