第12話

 マクシミリアンが車に戻り、心底ほっとした様子の運転手に再開を頼むまで、結局それ以上少女から呼び止められることは無かった。車が流れるように発進したのを確認した後、マクシミリアンはもはや外を見まいと目を閉じた。


 ほんの気まぐれだった。酒に溺れた酔っぱらいは助けないのに、暴漢に襲われかけている娘は助ける――何と偽善的なのだろう。人の命の価値に優劣は無いはずなのに。

 否。おそらく、自分は命の価値ではなく「その者が失うであろう物の価値」を見て判断したのだとマクシミリアンはふと気づいた。酒飲みの浮浪者が自業自得気味に失う命より、かっぱらいの少女が男達によって奪われる物の方が、重いと思ったのだ。


 まどろみの中で自問自答をしているうち、やがてタイヤの回転による心地よい振動は止み、運転手が到着の旨を静かに告げてきた。

「今日は済まなかったな」

 そう言ってチップを渡そうとして、しかし持っていた現金を全て少女に与えてきたことに気づく。赤毛の運転手はいささか疲れた顔をしていたが、それでも人の良い笑顔を見せる。

「いえ、ちょっと怖かったけど一度通ってみたかった道でしたので。明日は9時にお迎えにあがります」

「ああ、頼む」

 おつかれさまでした! と、まるでアルバイトの少年のような威勢の良い声を背に受けながら、マクシミリアンは帰宅した。


 ロンドン郊外の住宅地。ごく普通の煉瓦造りの一軒家にマクシミリアンは一人で住んでいた。両隣の家には既に灯りは無い。この住宅地の全ての家が家庭用のものであり、そこに単身で住み、深夜に帰宅するような人間はマクシミリアン一人しか居ないのだ。

 暖炉に火を入れ、全ての部屋の照明をつけ、脱いだコートをハンガーに引っかけ、そして大きく嘆息する。既に日付は変わっているが、今日はまだ夕食を摂っていない。夕方から急な仕事が舞い込んだせいだった。


 マクシミリアンには、小さな渇望が常につきまとっていた。

 それが何なのかは分からない。何をすれば手に入るのか、どこにあるのか。

 かつてはそれを求めて思い切った賭けに出たこともある。賭けには勝ったが、結局欲しい物は得られなかった。

 今はその賭け金の回収で忙しいだけの毎日だった。

 大会社の要職として、盟主をサポートしつつグループの発展につとめる――酷くつまらない仕事だと気づいたのは、賭けに勝った後だった。責任感は人並みにあるつもりなので、結局はそのまま一生懸命地位に見合った働きをしてきたつもりではあったが。


 コーヒーだけでも腹に入れてから寝ようと思い、マクシミリアンがキッチンへ向かおうとしたそのときだった。

 かつん。こつん。

 キッチンの窓に、何かがぶつかる小さな音が繰り返されていることにマクシミリアンは気づいた。雹でも降りだしたのかとも思ったが、他の窓ではそのような音はしていない。

 そっと歩み寄り、脇から外の様子をうかがう。そして、間近で見てようやく気づく。

 何者かが窓に小石を投げていたのだ。


 ハイスクールの小僧の逢い引きじゃあるまいし……と思わず呟いたところで、不意にその石を投げている主に思い当たる。

 予想が外れて強盗が居たとしても別に怖いわけでもないので、マクシミリアンはその投石をやめさせるべく、躊躇うことなく窓の前に立ち、そして敷地外に立っていた予想通りの投石者と正面から相対する。

 目が合うと、その人物はいたずらが成功した子供のようににっこりと笑った。


 マクシミリアンは窓を開け、冷気の中へ静かに告げる。

「警報装置がついている。あまり続くと警備会社が来るぞ」

 すると、街灯の薄明かりの中、白い息を吐きながらそこに立っていたホットパンツの少女はジャンパーのポケットに両手を突っ込み、マクシミリアンの苦言など意に介した様子もなく言った。

「スラムにだってタクシーくらいはあるんだぜ」


 かっぱらいの少女は貰った金を、マクシミリアンが予想もしなかったような使い方をしたようだった。


 ◆


 何を思ったか少女を自宅に招き入れ、さらには暖かい飲み物まで振る舞う。


 少女の名はドナといった。家に入れた瞬間に彼女が自ら名乗ったのだ。

「あのときはちょっと苛ついてたからあんなこと言ったけどさ、あんたはさ、あたしらをハイウェイの上から見下ろしてくる金持ち達とはちょっと違う気がしたから」

 暖炉の前で長毛のラグに尻を埋め、鼻を赤くしながらココアを啜るドナは、他人の家に居るとは思えないようなくつろいだ様子だった。


 波打つブルネットは暖炉の炎で煌めいている。目鼻立ちもすっきりしており、スラムでかっぱらいをやるくらいなら身をひさぐとまではいかずとも、容姿を使って十分稼ぐこともできるだろうにと思ったが、マクシミリアンは黙って彼女の言葉を聞いておいた。

「で、あんたのせいでもうあそこには居られないし、こんな時間に開いてる店なんてどこもないし」

「……ホテルならどこでも開いていると思うが」

「こんなナリだしまだガキだから、泊めてくれるとこなんてねーよ。……ここ以外は」

 そう言って、横の安楽椅子でコーヒーカップを弄んでいるマクシミリアンに向かって笑いかける。魅力的な笑みではあったが、心が動かされる類のものではない。男性性ではなく母性を刺激するような、子供らしい笑みだった。既に年頃の娘と言って差し支えなさそうな年齢に見えるが、ドナの仕草にはどこもそれが現れてはいなかった。


 明かりと熱を湛える暖炉に向かって憧憬のこもったような眼差しを向けているドナは、『家』という温もりに飢えた、ただの子供のようだった。マクシミリアンは彼女を家に招き入れる時点で半ば決めてあったことを口にする。

「……客間を開けてやる。一晩だけだぞ」

「!」

 その言葉を待っていたのだろう、ドナは飛び上がるようにして立ち、弾けるような笑いを見せた。

「ありがとう」

 ようやく感謝らしい感謝をされた。マクシミリアンは自分の行いが報われたことに僅かな充足感を覚えつつ、大人げない客人のために寝床を用意するべく立ち上がった。

「条件は一つだけ。私の眠りを邪魔しないでくれ。疲れているのでな」

 カップを片付けながらそう言うと、何故か背後でくすりと笑う気配がした。振り向くとドナがすぐ後ろで改まったように立っていた。


「何だ、『俺の寝室に来い』って言うかと思ってたのに、全然逆だ」

 暖炉の前に居すぎたせいか、ドナの顔は真っ赤だった。泣き出す直前のようにも見えたが、マクシミリアンは何もレスポンスせず、そのまま彼女のためのリネンを取りに行った。

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