第11話

 腕時計を見ると既に24時をまわっていた。ある意味いつも通りの帰社時間ではあったが、マクシミリアンは少し苛ついた様子で迎えの車に乗り込んだ。


 そして窓越しに、今なお煌々と光を湛えている本社のビルを見上げ、小さく溜息をつく。

「出しますよ」

「ああ、頼む」

 運転手の声に、低く応じる。今日は通常の業務の他にも緊急の案件が舞い込んできたため、いささか疲れていた。齢30もとうに過ぎ、体力は衰える一方だった。マクシミリアンは帰宅までの道のりを休息に用いるべく、色あせた金髪を掻き上げ、力を抜いてシートに身を預けた。


 だが、ほどなくしてまどろみは破られることとなる。心地よい速度で走り出したはずの車はいつしか止まっており、跳ねた赤毛を無理矢理帽子に押し込んでいる若い運転手が困惑した声を向けてきたのだ。

「ハイウェイが整備工事で閉鎖されているようです……丁度その、24時から」


 人類は、宇宙でどれだけ早く進めるエンジンを開発しても、それを地上の乗り物に適用することは無かった。地を這う限り、アストラムエンジンのような時速325万キロなどという速さは必要ないどころかただ危険なだけだからだ。地上の混雑を解消すべくエアバイクやエアカーなどの次世代機も開発されてはいるが、未だに実装段階には至っていない。


 結局は、人間の空間認識能力や反射神経に見合った乗り物しか使えないという結論に落ち着いている。地上では乗り物は臨機応変に移動するのが目的であることが大半なので、演算系によって画一的に制御することもできないのだ。

「迂回しますか? 大分時間を食いますけど……あと、下を通れば一応着きますが……」

 運転手が口ごもるのも仕方がないことだった。このハイウェイの下には、スラムが広がっているからだ。


 どれだけ文明が進歩し、どれだけ政府が慈善の手を広げても、その指の間から自らすすんで転がり落ちる者は必ず存在する。このロンドンでもそれは変わらない。ハイウェイの下に住み着いて縄張りを作っているのは、そのような手合いだった。

「車で抜ける限り問題ないだろう、それに卵やペンキを投げられた程度で壊れる車でもあるまい。そのまま下を真っ直ぐ行ってくれ」

「は、はいっ」

 若い運転手は緊張した面持ちで頷き、車を再発進させた。そしてハイウェイではなく、その下に広がる薄暗い町並みに入っていく。


 マクシミリアンの言葉通り、ギャングなどの巣窟ではなくただ落ちぶれた者が溜まっているというだけのスラムは、黒塗りの高級車が静かに通り抜けても、誰も立ちはだかって銃を突きつけたりはしてこなかった。

 既に夜中というのもあるのだろうが、不夜城と化した本社の所在地であるシティと比べると、まるで停電中かと思ってしまうほど灯りが乏しい。

「墓場の中を走ってるみたいだ……」

 運転手が思わず呟いた言葉を、マクシミリアンは聞き流すことにした。区画や方向はナビゲーションにより表示されているので心配ないはずなのだが、若い運転手が必要以上に怯えているためにこちらにまでその不安が伝染してきそうだったからだ。


 マクシミリアンは窓辺に頬杖をつき、外を眺めた。この場では流石に眠ることはできそうになかった。

 ゆっくりと暗い風景が流れていく。路面の状態は相当悪そうだったが、運転手の腕前かはたまた車のスペックの高さか、不快な揺れはほとんど感じられなかった。

 外の薄暗がりの中では、真冬だというのに路上で座り込んでいる人物も見受けられた。酒瓶を抱えているところを見ると自業自得なのだろう。翌朝冷たくなっているかどうかは本人の生への自覚次第といったところだろうか。助ける気にもならず、その姿はマクシミリアンの脳裏からすぐに掻き消えた。


 だが、そんなときだった。

「――!」

 ふと車外で目にとまった光景に、マクシミリアンは思わず声を出していた。

「止めろ」

「えっ?」

「いいから止めるんだ」

「は、はひ……っ」

 速度はそれほど出していなかったものの、まさかこんなところで車を止めるとは思っていなかったのであろう運転手が一呼吸遅れてブレーキを踏む頃には、マクシミリアンが見た横道は既に随分と後方になっていた。

「あのぅ、どうかなさったんですか……」

「すぐに戻る」

 おろおろしっぱなしの運転手に向かってそれだけ言い残し、マクシミリアンは防弾処理の施された安全な空間から自ら抜け出し、スラムに生身を晒す。

 そして早足で、先程目にした横道まで向かった。



 通りを抜ける風の音、野犬の遠吠え、どこか遠くでガラスの割れる音。

 薄暗い砂利道、はるか上方からかすかに降り注ぐハイウェイの光、ぼろ布のような服をまとって横たわっている浮浪者。

 夕餉の残り香などどこにも無く、ただドブと酒の混じり合った据えた匂いが鼻をつく。

 強烈な現実感がそこにあった。


 ここの住人にとっては太陽系だとか情報共有の電子の海だとか、そんな話は別世界の出来事なのだろう。ただ自分の見える範囲だけが現実の全てであり、それ以上遠くのことを気にする必要は無い。それはそれできっと幸せなのだろうな、とマクシミリアンはふと思ってしまった。

 目当ての横道に近付くと、若者達が言い争う声が聞こえてきた。

 いずれもがみがみとした汚い声だった。マクシミリアンは思わず唾棄したくなるのをこらえ、懐に手を入れ、その脇でタイミングを見計らう。


「だから、今週の分はきっちり払ったっつってんだろ!」

「今週から増やすって言っただろ、これじゃ全然たりねーよ」

「ンなの聞いてねえよ! って、放せよっ」

「だって上納金が足りないんだから、なぁ?」

「残りは別のモノで払ってもらうしか無いよなぁ」

「やめろよ、放せ、放せってば……っ」


 車内から見た光景で想像したとおりの見苦しい展開だった。車がここを通過したとき、ちょうど少女が男達にこの横道に引きずり込まれているところだったのだ。マクシミリアンは小さく嘆息し、懐の物を取り出しながら横道に入る。


「それくらいにしておけ」

「!?」

 そこに居た全員の目がマクシミリアンに集まる。

 男が二人と、少女が一人。いずれも見るからにまっとうな生業ではないことが分かるような出で立ちだった。

 片方の男が少女を羽交い締めにしており、もう片方の男が少女の服を掴んでいる。マクシミリアンは気を取り直させる暇を与えず、手にしていた拳銃を男に向ける。銃を持っているような相手には見えなかったが、ナイフや武器を持ち出されたり、二人同時に飛びかかられてはさすがにこちらの身も危ないからだ。


「失せろ」

「な、何だよアンタ」

「……失せろ」

 表情を変えないまま繰り返し強く言うと、男達はようやく自分達の置かれている状況を悟ったのか、二人で狼狽した顔を見合わせている。マクシミリアンはだめ押しのように告げる。

「これが最後の警告だ。失せろ」

「……っ」

 まず少女の服を掴んでいた方の男が息せき切って逃げ出した。羽交い締めにしていた方の男も、相方が我先にとこの場を脱したのが利いたのだろう、少女を解放し、彼の後を追うように走り去っていった。


 男達の足音が聞こえなくなるのを確認した後、マクシミリアンは銃を懐にしまった。そして乱暴に投げ出されて地面にうずくまっている少女に目をやった。

 強い眼差しをした少女だった。真冬にも関わらず黒いホットパンツから白い足が伸びている。おそらくは近くの町でスリかかっぱらいでもしているのだろう、使い込まれた運動靴と、実用的に肉のついた足がそう思わせた。だが、このような場所でそんな格好をしていては、別の職業と勘違いされても仕方ない。


 少女は身の危険から解放されたというのに、どこかふて腐れたような顔をしてマクシミリアンを見上げていた。

「一応礼は言う。ありがとよ」

 それは、感謝している声色では無かった。持たざる者が持ちうる者を見上げるときの、嫉妬と焦燥の混じったそれを、マクシミリアンは甘んじて受ける。

 ケンカを仲裁して劣勢な方を救ったのに感謝されない――まるで猫のようだとマクシミリアンは思った。そして持ち合わせている現金を取り出し、捨てるように彼女に向かって投げる。それほど多い額では無かったのだが、それでも少女は目を丸くしてその紙幣を抱えている。


「ここには居づらくなるだろうからこれでどこかよそへ行け。別に上納金とやらに使ってくれても構わんが」

 それだけ言うと、マクシミリアンは踵を返し、通りに出ようとした。

「お、おい!?」

 少女の驚く声が背中を打つが、マクシミリアンは立ち止まりすらしなかった。最後に、背後に聞こえているかどうかも定かではない程度の静かな声で言い残す。


「足が達者ならシティでメッセンジャーでもやれば良い。住み込みで働く口だって沢山ある。なりふり構わず手っ取り早く稼ぎたいのなら、着飾って街角に立てば良い。少なくともこんなところでちびっこギャングを相手にしているよりはマシだろう」


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