第9話

 操縦室へのドアが閉まると、いつの間にか聞き慣れていた警告音がぱたりと止む。そのままキッチンへ向かうアルフだったが、その途中で船内放送らしきスピーカから、警告音をBGMのようにして、ジリアンの芝居じみた声が聞こえてきた。


『まもなく当機は着陸体制に入りまぁす。シートベルトをお締めになり電子機器の電源を切ってお待ち下さい。なお、着陸時に作動していた電子機器の補償はできかねますのでご了承のほどよろしくお願いいたしまぁす』


 船後方にあるキッチンでは、レイオが何故か『安全第一』と刻印された黄色いヘルメットを被り、必死の形相で出したままの食器を片付けていた。揚げ物に使った油はどうにか片付けたらしいが、まだ洗ったままの鍋やら皿やらがテーブルの上に残されていた。レイオはそれらを棚に押し込み、マグネット錠のスイッチを押して扉を固定している。

「!」

 アルフの入室に気づいたレイオは、目を見張って慌てて左右を見渡した後、手近にあった深鍋を掴んでアルフに手渡してくる。

「……?」

「かぶって!」

 意味が分からず、アルフがぽかんとしたままそれを抱えているしかなかった。


「あのさ、これからいったい何が起こるんだ?」

「月に着陸するの……っ」

 そのとき再び船内放送が入る。

『ポイントまで30秒。レイオ、そろそろ気をつけて』

 常に不真面目な態度をしているジリアンの真面目な声。アルフもようやく相当深刻な事態にあることを悟る。


「……とにかく、これを片付ければいいんだな」

「うん、でももう危ないからそこの下に隠れてて良いよ」

 4人分の食事に使った食器と調理器具は2分弱で片付けられる量では無かった。アルフはとにかく割れ物を先に棚に収め、磁石でしっかりと戸を閉ざす。

『20秒』

「で、その月に着陸ってのは、危険なのか?」

「タッチダウンは、普通の着陸じゃないの、今度のは……演算系が全部死んじゃう……!」

「なっ……」


 レイオの簡潔かつ切羽詰まった返答で、アルフは思わず手を止めて絶句する。

 船の機能の全てを管理していると言っても過言ではない演算系。それが機能しなくなるとなると、航路制御どころか酸素の安定供給や慣性・重力の制御すらできなくなる。

 慣性の制御ができなくなったままで減速、着陸する――それはすなわち自殺を意味するに等しい状況にも思えた。


『行くよ』


 ジリアンの声とほぼ同時に一瞬、聴覚がおかしくなったのかと思うほどの静寂が訪れる。

 だが、次の瞬間にはそれを翻すように凄まじい轟音が船を包んでいた。同時に重力が失われ、アルフの身体がふわりと浮き上がる。

「うわっ!?」

 バランスを崩したアルフはじたばたともがくが、支えにできそうな物にはどこにも手が届かない。

「…………!!」

 なすすべ無く宙に浮かんだアルフは、自分の息が次第に詰まっていくのを感じていた。


 呼吸が浅くなり、動悸だけがどんどんと速くなる。体が竦む。びりびりとした振動が、眠る前のことを否応にも思い出させる。つかの間忘れていた死が迫る――

「こっちへ!!」

 アルフの無形の怯えを掻き消すように、鋭い声が飛んだ。見ると、テーブルの下でしゃがんでいるレイオが手を差し出していた。


『ランディングするよ。喋ってたら舌を噛むからね』

 こうなったら彼女が幻色人種であることなど構っていられない。既にすっかり浮き上がってしまっていたアルフはどうにか手を伸ばし、レイオの手を掴んだ。

 レイオがアルフを引き寄せたのと、船が砕け散らんばかりの振動をし始めたのはほぼ同時だった。


 ◆


 いつしか『針の星』とすら呼ばれるようになった、灰色のレゴリスで築かれた巨大な通信塔だらけの月の大地にヴァーミリオンローレライ号を無事着陸させたザギは、各種画面で連邦軍の追っ手が月にまで及んでいないことと、予備の演算系が起動したのを確認した後、胸元から煙草を取り出し、禁煙区域などお構いなしに火をつける。そしてフィルタから一息に吸い込み、安堵の吐息代わりに紫煙を吐き出した。


 隣席のジリアンはというと、流石に手動によるタッチダウンに神経を消耗したのか、今は燃え尽きて、薄汚れた眼鏡を外してコンソールに突っ伏していた。接触感応のパネルが不正操作で一生懸命エラーを出しているが、ジリアンはお構いなしに鼻だの額だのを押しつけている。

 それも仕方のないことだった。針の山のような月の地表で、肉眼でルートを見極め、僅かに利く手動操縦でその中をすり抜けて着陸したのだ。

 とはいえ演算系が死んでいるため正確な挙動ができるわけでもなく、ある程度の方向修正をした後は運頼みの割合が非常に大きかった。正直数本はかすった感触はあったのだが、この際船と、何よりも自分達の命がまだ無事だったということで気にしないことにした。


 そのとき、ムーンベースからの通信が入った。それまでとは打って変わってピリピリと軽やかな音が操縦室に響く。

 ダウンしているジリアンの代わりにザギがだるそうに操作してそれを繋いだ。聞こえてくるのはやはり、壮年の男の険しい声だった。


『一本でも倒したらお前らのため込んだ小銭を全部ふんだくってやろうと思ってたんだがな』

「レッカー頼む。座標はどうせ把握してんだろ」

『今回はレッカーの経費だけにまけといてやる。次からは通信断絶による賠償金も請求するからな』

「次はレイオにお酌させるさ」

 通信はそれきり途絶え、ザギは改めて煙を吐き出す。


 そしてザギはジリアンを捨て置き、煙草をくわえたままゆっくりと席を立った。そして重力制御がいかれてからの駆動で悲鳴をあげかけていた筋肉をほぐしながら、操縦室を出てキッチンに向かった。

 太陽系全域に人類が行き渡るようになった今では、地球の衛星である月は通信の中継基地として利用されていた。おびただしい数の通信塔が建設され、北の極部分にはそれに関わった技師達が築いたムーンベースという町がある。


 ザギが通信で会話していた相手は、そのムーンベースで親方と呼ばれている男だった。ザギ達は彼と、月の力を借りて、地球艦隊の追跡を振り切ったのだ。

 数え切れないほどの通信塔による、星をまたぐほどの強い電波は、その近くの宙域に入るだけで演算系を狂わせる。

 個人の技巧への依存を捨て、全てを演算系による制御に頼っている連邦軍は、これを大の苦手としている。それゆえに、月付近のとあるポイントまで来ると、彼らを振り切ることができるのだ。ただしもちろん自分達の船の演算系も死ぬため、着陸は命がけの手動となる。


 すぱすぱと煙を吐き出しながら、ザギはキッチンに入った。

 キッチンはザギが思ったほどの惨状にはなっていなかった。よほど急いで片付けたのだろう、着陸の衝撃で吹っ飛んだのは深鍋が一つだけのようだった。

 しかし、足下で面白い光景が見つかった。


 煙草をくわえたままテーブルの下を覗き込んだザギは、煙草をつまみ、咎めるというよりはからかうように、そこにいる人物に声をかける。

「おいレイオ。不純異性交遊は18歳になってからって言っておいたはずだぞ」

「……ち、違うもん」

 目を回したアルフとくんずほぐれつな状態になり、彼に組み敷かれたまま身動きのとれなくなっているレイオは、顔を赤くしながら異議を申し立てたのだった。

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