まるで覚えの無い記録


 びゅうびゅうと風を突き抜ける音と、ごうんごうんと響く機械音が同居している。

 デッキには乗組員が忙しなく……というほどでもない。一度飛んでしまえばやることは少ないらしい。マストの上に乗っていた監視員も、ぱたぱたと駆け回っていた甲板手も、渋い顔で舵を取っていた船長も、いずれもがリラックスした様子で、中にはうつろうつろと船を漕いでいる人員も見受けられる。


 それもそうだろう。見た目こそはかつての船そのものだが、それは帆の代わりに膨らんだ気球を有している。

 航海しているのも海ではなく、地上を遥か下に置き去りにした空だ。突発的な高波や座礁に見舞われることなどない。一度飛んでしまえばこっちのものだと言わんばかりに、悠々と雲を突き抜けていた。


「うわぁ……」


 そんな光景を前に、ルネは感嘆の息を吐く。

 かつて伝説の霊鳥に乗ったことはあったが、現代の技術はそれよりも高く、遥かに早い。

 身震いしそうな程に突き抜ける大気と、巡り往く空の光景に、ルネは未知の世界を探索しているかのような高揚感に包まれていた。


「ははっ! 飛空艇に乗るのも始めてって感じだね♪」


 と、飛ばされないように帽子を押さえたステラが言う。


「それで……どうかな? こうしてディジー大陸を見下ろしてみて、何か思い出せそう?」


「あー……ん、ちょっとそれは」


「そっか。まぁ時間はたっぷりあるんだし、無理しなくていいから」


 バシバシと背中を叩かれるルネは、ほんの少し顔を埋めて、口元に浮かべていた罪悪感を隠す。

 それは彼女と交わした交換条件だったが、この期に及んでも後ろ暗さは拭えない。

『一緒に記憶探しを手伝って欲しい』などと、お人良しなステラを騙してまでしたことは。




「――というわけで、ビディは交易路を開いた」


「へぇ、そうなんだ」


「――ってことがあって、クランツは盗賊団を静めた」


「ふーん。そんなことがあったんだ」


「――その功績が王に認められて、シュタイナーは爵位を」


「はいはい」


 そこは飛空艇の三等客室。

 狭い部屋に二段ベッドが二組だけしかないという、寝る為だけというか、彼女のような『勇者』が泊まるにしては物寂しい部屋だ。

 そんなベッド間の狭い通路に折り畳み式のテーブルを広げて、ルネは座学を受けていた。『記憶喪失を治す』という名目の情報収集である。


「ふぅ……」


「あっ、疲れた? ちょっと休憩しよっか?」


 などと言って、彼女は部屋に常備されている楕円形の機械(ポットと呼ぶらしい)から熱湯を出す。

 そして並々に注がれたティーカップに、これまた常備されている茶葉の詰まった袋を浸せば……あっという間に紅茶が出来上がる。竈に火種を入れるところから始めていたかつてのことを思うと、酷く便利になったとルネは思う。


「で、どうかな?」


「ん……助かってるよ」


 紅茶を一口すすって、ルネはそう返す。驚愕半分納得半分と言ったところだ。

 彼女から聞かされた歴史は――案の定であったから。


「でも聞いた名前にはちっとも覚えがない。申し訳ないことだけど」


 ビディ、クランツ、シュタイナー。

 ルネは『かつての勇者パーティ』という名目で聞かされた人間に思い当たる節がない。そんな名前の人間と冒険を共にしていた記憶がないのだ。


 最初に疑問を抱いたのは先日の、ヴィルのフルネームを聞いた時のことだ。

 彼女は『ヴィルヘルム・L・カーディア』と語っていたが、ルネの知るヴィルの本名は違う。

『ヴィルヘルム・オーンスタイン』である。ファーストネーム以外はちっとも掠っていない。


 しかしそれも致しかたないことだ。

 なにせ400年である。時間が経つほどに伝達に不備が生じることは、ルネにも容易に想像出来る。

 だからこそあの時に思ったのだ。ステラの語っていたヴィルヘルムは、ルネの知るヴィルではなかったのだと。何かしらの履き違いによって、ヴィルと何処ぞの革命家が同一視されてしまったのだと。


「そっか……ルネくんが聞きたいって言ってた歴史の話をすれば、何かしら思い出せると思ったんだけど」


「気にしないでステラ。思い出せなくても、知れるだけで良かったよ」


 ルネは申し訳なさそうなステラを宥める。

 かつての仲間が時代に思い悩んだ末に、戦火で命を落としただなんて……やはり間違いだったのだと知れただけで十分だ。


「それよりさ」


 と、そこで一旦歴史の授業は休止。

 ルネは部屋の二段ベッドの上段に目を向ける。そこにはステラ以外の私物と思しき、液体の詰まった瓶や分厚い書籍が置かれたままになっている。


「『リジー』って言ったっけ? 先に来てるんだよね?」


 それは彼女が語っていた同行人パーティーに関することだ。

 この飛空艇の中で落ち合う予定だったらしいが、未だその人物は姿を見せていない。


「たぶん『通話』で局に連絡をしてるんだと思う」


「通話?」


「うん。伝声管で……と、今は空だから違うね。暗号化された光の点滅を合図にして、交換手や自動機械オートマタがリレー形式で遠くまで伝える技術、って言ったら分かるかな?」


「…………お、おう」


 さっぱり意味は分からなかったが、一先ずルネは頷くことにする。

 どうせ聞いたところで理解出来ないことが分かったからこその反応だ。


「でも遅いよね? 早くルネくんのことを紹介しなくちゃなんだけど」


「え?」


 それになにより、その後に続く発言が聞き捨てならなかった。


「ステラさ。そのリジーって子に、僕のことは伝えてるんだよね?」


「え? もちろんしてないけど?」


「…………」


 心配になって聞いてみると、まさかのまさかだった。

 ルネが聖遺物と引き換えに持ち掛けた条件を――記憶喪失を取り戻す為にしばらく同行させてほしいという建前を――彼女は同行者に断わりを入れていないというのだ。


「や……それ大丈夫なの?」


「なにが?」


「だから……女の子二人の部屋に、いきなり知らない男を連れ込んでさ? そのリジーって子は本当に気にしないの?」


「あ、そのこと? あははっ、大丈夫大丈夫!! リジーは何だかんだで優しいからさ! きっとキミのことだってすぐに認めてくれるよっ!!」


「ほんとかなぁ……」


「ほんとほんと! ルネくんは大船に乗ったつもりで安心するといいよ!!」


 と、自身満々にステラは胸を張る。


「あ、噂をすればだよ!」


 そして程なくしてのことだった。

 カツカツと硬い音を鳴らして、誰かが早足でこちらに向かっている。

 それは部屋の前に立ち止まると、一回、三回、四回と、断続的に暗号のようなノック音を立てる。


「リジーでしょ? いちいち警戒しなくてもいいってば」


 そこに無警戒に肉声で応える彼女。

 はぁと溜息を吐いている様子が、扉の向こうからでも伝わって来た。


 そして――


「まったく……ステラさん、いつも言ってるでしょう? 貴方が強いことは分かっていますが、立場としては連邦の勇者なんです。その点の弁えというか、自覚というかですね……ちょっとは警戒心を持ってくれないと、私は夜も眠れません。もしも人畜無害を装う悪漢が部屋に押し入って、貴方の人の良さを逆手に取ったら、どういう事態になってしまうかお分かりですか? 私は幼馴染として、そのことを想像するだけでご飯が喉を通りません。そもそもステラさんは勇者である前に一人の女です。小さい頃から勇者様ごっこに勤しむ、院の男の子顔負けの勇猛果敢っぷりを見せていた貴方ですが、それでも淑女としての慎みを忘れてはいけません。たとえば無警戒に男を連れ込むようなおほおおおおおおおおおおおおお!? なんか見知らぬ野郎が部屋の中にいるぅぅぅぅぅぅうううううう!?!?」


 リジーとやらは現れた。

 くどくど説教を告げながら入室したかと思いきや、ルネの存在に気付いて絶叫した。

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