ほしどめ
扉をあけて足をふみいれた瞬間だまりこんだままじっとたたずむピアノの影が目にはいってその沈黙が耳にさわった。窓からとびこんでくるほかの教室からの喧騒やすこしつよめにふいている風や鳥の鳴きごえといったさまざまな音たちは波うつ天井に拡散して壁にはられた有孔ボードのちいさな穴のひとつひとつへと吸いこまれていってあとにはしずけさだけがあった。
音楽室はいつもとくべつな感じがする。音楽がすきだからとかなにか思い出があるからとかそういう私のがわにある理由ではなくて、空間として日常のどことも接続することもなくかさなることもなくにここだけがぽっかりと孤立しているのだ。
理科室も美術室も図書室も工作室も家庭科室もパソコン室も特別教室はどこも普通教室とは全然おもむきがちがうけれど、そのなかでも音楽室はおおきなピアノがあって上下段にわかれた黒板には五線譜が書かれていてその両脇にはスピーカーがつけそえられていて天井は波うっていて壁には有孔ボードがはりつけられていてそれらのここにあるものたちがくちぐちに自分たちはとくべつなのだとことさらに主張している圧迫感みたいなものがあった。
きっと日常とよばれるものはそのおおくが音でできているからそこにない音にふれるためにはこんなふうに孤立していなければならないのだと思った。
「いちばんのりだ」
私のあとから音楽室にはいってきたサナがまだほかに誰もいない音楽室のなかをみわたしながら言った。
「サナはにばんだよ」
「こまかいなぁ」
ピアノにいちばんちかい窓ぎわのいちばん前の席にサナは手にしていた教科書やノートやペンケースなんかをばさっと乱雑においたのでサナのペンケースにつけられているいくつかのにぎやかな缶バッジがかちかちと音をたててしかしその音はどれもすぐにふわっとひろがって壁にきえていった。私はそのとなりの席に自分の教科書やノートやペンケースなんかをサナよりもしずかにおいた。
サナは席にすわらずにそのままピアノの前に立って鍵盤のふたをあけた。ずらりと規則的にならんだ白鍵と黒鍵からサナはまんなかにあるE4をひとさしゆびでぽんとたたいてその音が一瞬音楽室にめいっぱいひびいた。その音のおおきさに音をだしたサナ自身がすこしだけおどろいた様子でそれ以上鍵盤をたたこうとはしなかった。
「ひかないの?」
「ひけないの」
となりに立とうとするとサナが椅子をひいて私にそこにすわるようにうながしてきた。私はそれを無視して立ったままサナが鳴らしたE4のとなりのとなりにあるC4をたたいて、その音がおなじようにすっとひびいて波うつ天井に反射して壁の穴のひとつひとつへと消えていくのを耳をすませてきいた。
サナがなにかを期待する目でこちらを見ているのがわかったからすこしだけその期待にこたえてあげようかしらという気分になったけれど、そのときあけはなしていた扉のむこうのほうからほかの生徒の声がきこえてきたので私はだまって鍵盤のふたをそっとおろした。ちぇ、なんてサナがわざとらしく舌うちをしてみせた。
「こんど教えてよ」
「なにを?」
「ピアノ」
ふたりしてピアノからはなれて教科書のたぐいをおいた席にすわるとサナは私の指先に視線をむけながら言った。私はサナの指先に視線をむけて今は桃色にぬられている爪がきらきらとひかっているのを見た。
「やだ」
「なんで」
「なんでも」
私がにべもなくことわるとサナはむっとしてその理由をたずねてきたけれど私はその理由についてサナにどうつたえていいかわからなかったので適当な言葉でごまかすとサナはますますむくれてみせた。しかしその様子がいかにもわざとらしかったのでピアノを教えてほしいというのもきっと本気ではないのだろうとわかった。
「けち」
サナはそう言ってやっぱりわざとらしくそっぽをむいたからそれがあんまり子どもっぽくておかくて私はわらった。
さっきサナと私が鳴らしたふたつの音は壁のちいさな穴のひとつひとつに吸いこまれてしまっていまはそのかけらさえどこにもなかった。
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