ともぬの

 昇降口にあるはしらのうちのひとつにかかった時計はひそやかに時刻をつげるけれどそれをふだんから気にしている人はほとんどいなかった。そこに時計があることに気づいていない人もたぶんいっぱいいて私もいままではそのうちのひとりだった。夕刻をさししめす針に窓のそとを見ようとするけれどそのむこうの灰色に反射して見えるのは窓のそとを見ようとする私のすがただけだった。

 蛍光灯のざらついたあかりは懸命にあたりをてらそうとしているのにそれはほのぐらさを逆にうきぼりにしていて、てらしだされるのはじっと耳にいたいくらいのしずけさのむこうからきこえてくる雨音くらいだった。

 昼すぎからふりだした雨はつよくなることもよわくなることもしないでぽつりぽつりとそのひとつひとつのゆくえとそれがえがく模様や波紋を確認するみたいにゆるやかにふりつづけていまもやんでいない。ほそく息をはきつづける感覚ににた息ぐるしさがあたりにみちていていやな雨だと思った。

 下駄箱におさめられているのはほとんどがうわぐつでそれは校舎にのこっている生徒のすくなさを語っていた。いつもこのくらいの時刻ならまだ音楽室のほうからかすかにとどく吹奏楽部のトランペットだとかトロンボーンだとかホルンだとかの金管楽器の音も今日はきこえてこなかった。

 みんなこのいやな雨からにげるみたいに早々に帰途についてここには私しかのこされていないのではないかとそんなことを思った。

「あれ」

 でもそんな考えはすぐに聞こえてきた声でかんちがいだとわかる。缶バッジだとかキーホルダーだとかをたくさんつけたにぎやかなかばんをがちゃがちゃと鳴らしながら肩にさげたサナがおどろいた顔で私を見ていた。

「さき帰っててって言ったのに」

 私しかいなかった昇降口にかつかつとサナの足音はよくひびいた。

 提出しなければならない数学のプリントをわすれたせいでこんな日にのこされることになったサナはたしかに私にさきに帰るように言っていた。サナのうしろの階段のほうから足音といっしょに話し声がいくつか聞こえてきて、それまで人の気配さえなかった昇降口がにわかにざわめきだして息ぐるしさがすこしだけやわらいだ気がした。きっとサナとおなじようにプリントをわすれたりやらなかったりした生徒がほかにもいたのだろうと思った。

「傘」

「かさ?」

「わすれたって言ってたでしょ」

 かばんからおりたたみのちいさな傘をとりだして手わたすとサナは素直にそれをうけとってから首をかしげつつしげしげとながめだした。

「ひとつ?」

「私は普通のがあるから」

 そうこたえるとそれまできょとんとした様子だったサナがふいにわらいだしてその声は昇降口によくひびいた。サナがなんでとつぜんわらいだしたのかがわからなくてこんどは私が首をひねった。

 あとからやってきた生徒たちが横をとおりすぎるときにわらっているサナを横目で見ていったのでなんでか私のほうがすこしはずかしくなった。

「なに」

「ごめんごめん」

 すこし不機嫌になって言うとサナはまったく心からわるいと思っていない様子であやまりながらしかしまだわらっていた。

「下駄箱にでもつっこんどいてくれればよかったのに」

 サナにそう言われてはじめて私がわざわざのこっている必要はなかったことに気がついた。こんどこそなんでか本当にはずかしくなったのでサナの顔を見ないようにきびすを返すとサナは私の背中にむかってやっぱりわるいと思っていない調子でもういちどあやまった。

「つぎからはそうする」

「えー」

 下駄箱にむかってあるきだすとサナの足音がうしろからついてきた。蛍光灯のざらついたへんに白いあかりはその足音とまだくすくすとわらっているサナの声をてらしていて雨音はきこえなかった。

「ありがと」

 私のとなりにおいついたサナが言った。

 私はさっきよりもずっとくらくなった窓のそとを見ようとするけれどそのむこうの灰色に反射して見えるのは私とサナのふたりのすがただった。

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