いせこみ

 二限目の英語の授業が終わってかばんからとりだした本とイヤホンを机のうえにおいたとき、うしろにいるクラスメイトの女子たちは私の興味のない話をしていたのでその内容についておぼえていることはなかった。

 本をひらいてぱらぱらとめくるとまんなかあたりにおれまがったページがあって、それは昨夜ベッドに寝ころがって読みすすめていたら途中で寝てしまって朝起きたときに額のしたじきになっていたところだった。ひらいたページの冒頭はかすかに読みおぼえがある程度でイヤホンを手にとりながらページをひとつもどろうとしたそのとき、うしろの彼女たちの声が「秋原さん」と言ったのを聞いて、しかしそれがどういう会話の流れで出てきたのかが私にはわからなかった。

 その名前がポジティブな話のなかで出てくることはあんまりない。たとえばこわいだとか派手だとか不良だとか、あるいはもっと直截的な、逆にもっと迂遠な表現とともに秋原さんという人間がこの教室に、この学年に、学校生活というものにいかにとけこめていないかという話をよく耳にした。たしかに授業には平気で遅刻してくるしなんならサボってしまうこともすくなくないしメイクも服装も派手だし耳にはいつもピアスをしているし、そういったわかりやすい部分でそれらはまちがってはいなかった。

 それでもときおりとびきり立派な尾ひれのついた、もしくは根も葉も当然花もないうわさ話にふれることもあって、そういったうわさたちは私を不愉快にさせたけれど、それを否定してくつがえせるほど私はこの教室や学年や学校という枠のなかでおおきな存在ではなかったので結局それについてもなにか言えるわけでもなかった。

 そういうとき私はすこしだけ私のことがきらいになった。

 聞こえてきたのはやっぱりそれほどたのしい話ではなくて彼女たちは「秋原さん」をさしてこわいよねと言った。彼女たちのうちのひとりが次回の英語の授業でおこなうグループワークで「秋原さん」とおなじグループになったのでなにを話せばいいかわからないと言っていた。べつの子がどうせ授業こないよと言った。そうかもとかたしかにとか、そんな言葉が聞こえた。彼女たちがあまりおおきくない声で語る「秋原さん」の姿はやっぱりこわいとか不真面目だとか不良だとか、そういったわかりやすくてあからさまなイメージにむすばれていった。

 教室のうしろがわの扉のがらがらとやかましくひらいた音で彼女たちがはっとして口をつぐんだ気配がしたので扉のほうをうかがうとサナがいた。サナはちいさくあくびをしながらじゃらじゃらと音がするくらい缶バッジやストラップやキーホルダーなんかでかざりつけたかばんを窓際から二列目のうしろから二番目の自分の席においた。さっきまで「秋原さん」の話をしていた彼女たちはそれを見ながら私にも聞こえないくらいのひそひそとした声でなにかを話していた。

 私はけっきょく一文字も読まなかった本をとじてイヤホンといっしょにかばんにしまうとサナの席にむかった。私の席のうしろにいた彼女たちの視線をすこしだけ感じたけれど気にしないことにした。

「おはよ」

「ん、おはよ」

 サナがそう返事をしながらまたひとつあくびをした。目がほんのりとあかくなっていて寝不足みたいだった。昨夜は私が本をまくらにして寝るすこし前までメッセージのやりとりをしていて、そのときサナは私が貸した本を読んでいたらしかった。

「借りた本、おもしろくって」

「全部読んだの?」

「まだ」

 かばんからとりだしたその本にはしっかりとしおりがはさまれていた。たぶんサナは授業中もそれを読むからこのあとの数学も歴史もまったく頭にはらないだろうと思った。

「なんかあった?」

「なにが?」

「機嫌よさそう」

 サナにそう言われて私は自分の口元がすこしだけゆるんでいることに気がついた。

「なんにも」

 私はその理由に心あたりがあったけれどサナにはどうしても伝えづらいことだったからそう言って顔をそらした。

 たぶん私がこのせまくるしい枠のなかでもうすこしおおきな存在だったとしても、私は口をつぐんだままなのだろうと思いいたって、またすこしだけ私は私のことがきらいになった。

「え、教えてよ」

 むくれるサナの顔はなんでこんな顔をする人がこわいとかなんとか言われているのかまったくわからないものだった。

 きっとまだ私しかしらない。

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