ぬいしろ

風遊(ふゆ)

たまどめ

 鳥のつばさをひろげてはばたかずに輪郭のくっきりした背のたかい雲と青い空との境界をすーっとなぜながら飛んでいくのをひとり教室で見ていた。

 あけはなした窓のカーテンのすそがゆらりとおもたげにゆれたのはそよいだなまぬるい風のせいではなくてアブラゼミのじいじいとやかましい声のせいに思えた。頬にふれているてのひらはじとりとはりついていやな熱があったけれど頭のおもさのほうが憂鬱だったので頬づえをはずす気にはならなかった。

 鳥が三度ほどはばたいてとおざかっていった。あとには鳴きやむことのないアブラゼミの声と整然とならんだ机や椅子にかこまれた私とゆらがないカーテンだけがあった。

 私は目をとじてやかましいばかりのアブラゼミの声にトライアドやセブンスをいくつかかさねながら、そこに発見されるべき和音や規則的なリズムがあるのではないかとそれをさがしていた。

「あれ」

 教室のうしろがわの扉にはなめらかさがなくてあけるとがらりといくらかおおきな音をたてる。そのときもアブラゼミの鳴き声とはまったくちがう音を教室にひびかせて私が目をあけてそちらをむくには十分すぎる音をたてた。そこにはかばんを肩にひっかけていかにもいま登校してきたばかりといった様子の秋原さんが立っていて、がらんとした教室をみわたしてからそのなかでひとり席にすわっている私のほうをむいた。

 てのひらの思わずはなれた頬にぬるい風がふれてすこしだけすずしさを感じた。

「みんなは?」

「プール」

 私は前の黒板のとなりにはられた週の予定表に目をむけた。今日のこの時間は体育の授業中でこの季節はプールで水泳をやることになっていた。

「ああ」

 秋原さんはその視線につられるみたいにそちらを見てから納得したふうにうなずくとそのまま教室にはいってきて自分の席にかばんをおいた。

 秋原さんの席は私のとなりの列のうしろから二番目で私は前から二番目だった。私はそれをなんとなく目でおったけれど彼女が席にすわるまえにまた頬づえをついて窓のそとを見た。とおざかった気がしたアブラゼミの声はしかしまったく気のせいでしかなくてさっきとかわらずにやかましくそこにあった。

「プールじゃないの?」

 ふたたび目をとじるよりさきにうしろから秋原さんの声がかかったので私はふりむいてそちらを見た。秋原さんは頬づえをついて私のほうを見ていた。

 そのときふわりと風がふいて彼女の髪がなびいてその下で耳にぶらさがった銀色のピアスがそっとゆれてアブラゼミが一瞬鳴きやんだのでそのきらきらとゆれたときの音が聞こえたみたいな気がした。

「熱中症」

「え、だいじょうぶ?」

「てことにしといて」

 私が答えるとおもいのほか秋原さんは心配そうな顔をしたので私はすぐにそれが仮病であることをつげてすこしだけわざとらしくひとさしゆびを唇にそえた。それを見た秋原さんがぽかんとしているので私はすこしはずかしくなってなにも言わずに前をむくとうしろからわらいごえが聞こえてきたのとおなじタイミングでかたんと席を立ったらしい音も聞こえた。

「なにしてたの?」

 秋原さんが私の前の川辺くんの席にすわりながらたずねてきたので私は答えあぐねて窓のそとを見た。輪郭のくっきりした白い雲はゆっくりと形をかえていていくらか背がひくくなったように見えた。

 秋原さんも窓のそとを見た。アブラゼミの声を採譜しようとしていた、とはつたえづらいのでそんなふうにぼうっとしていたのだとそう思ってくれるように私はだまっていた。

「蝉の声ってさ」

 ぽつんと秋原さんがつぶやいた。

「なに?」

「楽譜にして、楽器で演奏とか、できるかな」

 なにを言うのかと思ったらそんなことを言うものだから私がおかしくなってわらいだすと、こんどは秋原さんのほうがなんだかはずかしくなったみたいでふいと顔をそらしてしまった。

「そんなへんなこと言った?」

「ごめんね」

 むっとした様子の秋原さんにあやまりながらまたアブラゼミの声に耳をすませようとした。

「秋原さんとおなじこと考えてたから」

 じいじいとやかましいそれはまだどんな和音ともなかなかかさなってくれていないから私はまた目をとじてさっきのつづきにもどろうとした。

「サナでいいよ」

 目をとじるよりさきにそんな言葉が聞こえたので顔をあげると秋原さんはなぜだかうれしそうにわらってみせた。ふわりとふいた風が窓のカーテンよりもかろやかに彼女の耳のピアスをゆらしてこんどこそはっきり聞こえた気がしたきらきらとした音が、アブラゼミの鳴き声にかさなった。

 その和音はとてもうつくしいと思った。

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