芳地

 私は今、何処に立っている?


 凪いだ水面に見える。

 固いコンクリートに見える。

 枯山水のような砂場にも見える。


 前を向き、もう一度目を落とせば――そこに、元あった地はない。


 私は、何処に立っている?


 只の一歩も歩けない。動けない。金縛りのごとく、息をついているのかすら怪しく思えて仕方がない。


 突然、ぽちゃりと鈍い水音が響き渡った。


「っ!?」


 体の制御が効き始める。静止していたハズの体が全力疾走した時のように大きく前につんのめって、顔面から水面に突っ込んだ。


「あー…………。あー……。イレギュラーか。ま丁度いいか」


 後頭部に投げかけられる声。おそらく男性。……クソ、眼鏡がびしゃびしゃだ――途端、顔に感じるかったいコンクリートの感触。

 曖昧MeMineだなんてくっだらないダジャレを言っていたのは誰だったか。いや、別に誰でもいい。取り合えず顔面をひっぱたきたい衝動に駆られる。


 赤いフチの眼鏡と首を手で押し上げて、沈もうとする体を多少無理やりにでも持ち上げた――今度は泥地だったからだ――明かりは月だけだというのに、ハッキリと見える男性の姿。


 てらてらと光る革製のジャンパーの上に端正な顔がのっかり、すらっと伸びた足は、最早傷ついていない部分を探すことのほうが難しいダメージジーンズに覆われている――現代ファッションにおいては特異としか言い様がない取り合わせも然し、この男性に於いては舞台端に押し込まれた脇役エキストラでしかなかった。


 一体どれだけ広範囲の雑草を刈りたくなったらそうなるんだと聞きたくなるほどに大きな弧/刃。


 一体どれだけ目立ちたくなったらそうなるんだと聞きたくなるほどに目に悪いショッキングピンクを纏った柄。


 ソレを、一言で形容するのなら――

 鎌だ。


 眼鏡の下の眼を擦る。


 鎌だ。私の背丈ほどもあろうかという大鎌が、その大きな背中に背負われている。


 額に泥まみれの手を当て、己の眉間を揉み解す。――――嗚呼、なんだコイツは。


「おいおいおい――……ンな顔しないでくれよ……せっかくの晴れ舞台だってのにさ」


 思わず知らねーよと口から零れそうになった。嗚呼嫌、どちらかといえば「此処は何処」、になるか。


 こんな状況だというのに、私の心は異様なまでに凪いでいる。此処に来て感じるのも『何処』と、それだけ。

 恐怖の一つくらい、感じてもおかしくないのだが。


 恐怖を感じないことに恐怖し始めた私の胸中を知ってか知らずか、男はにかりと口角を持ち上げる。


「まあ、端で見てな」


 男が私の肩をぽんと叩いたかと思えば、その背負った鎌を抜き放った。鎌の鈍い光が月に代わって辺りを照らし、曖昧な虚像を、均整な実像へと塗り替えていく。いや、塗りつぶしていく。


 。この世界において、それは揺るがない恐らくただ一つの実像――レンズの向こう側に見える、たった一つの具体例。


 足の下にある石畳が、しっかりとその固い感触を押し返してくる。

 先ほどとは打って変わり、真新しい朱色の木材で作られた本殿がこちらを覗き込んでいる。


 その中心。拝殿のその真ん中――祀るべき


 ごうごうと荒々しい風が吹きすさび、影が飛び出す。


 瓦礫を寄せたような尾が伸び上がり、真っ黒い影に血走った目が浮かび上がった。

 その下でごぽりと影が裂け、その鋭い牙と牙の間から、赤黒い舌がちらりと見えた。


「うわ、グッロ……」


 小さく男が呟いた――全く以て同感である。


 その姿は血に飢えた狼人間ウェアウルフだ。その牙が人に向かないことを願うばかりだが――まあ、あの様子だと無理だろう。

 幸いにも、こちらにその牙が向くことはなさそうだ。何故と訊かれれば、――――、"なんとなく"と曖昧な言葉でしか返せないが。


「ホント、よく見といてくれよ。それが俺の――アンタにできる、唯一の手伝いだ」


 鎌を背中から引き抜き、男は怪物へとその刃を向けた。

 月光に照らされ、銀が朧気に反射している。


 ひゅう、と風が鳴る。

 私の髪を揺らし、マフラーを揺らし、吹き抜けていった――一人と、一匹の方へ。


 それが合図と相成ったのか、二人が同時に走り出す。


 短い幕が上がった。


 二つの銀が交差して、男は鎌から、獣はその牙から、それぞれ火の花を咲かせた。ぎりぎりとおよそ刃とは思えない音を鳴らしたかと思えば、二人の距離は此方こちら彼方あちらへ分かれている。


 とても目では追えやしない。どちらとも附かない銀色が閃いたかと思えば、餅を搗くとき返しの手が入るかのように、もう一つの銀がその行く手を阻む。


 男の様相は生であった。死の狭間に身を置きながら、そこから必死に抜け出そうと――或いはそこに留まるかのように、その巨鎌を振っていた。


 獣の様相も生であった。死を映したようなその眼窩はしかし、生を捉えた眼球を抱えている。


 イカれてる。いろんな意味で。


 それが爆ぜ、或いは交わって、若しくは分裂して。



 ふらりと揺れた獣の首へ、銀の鎌が振り下ろされた。

 立っていたのは、男であった。


「――よし、俺は――次は、アンタだ」


 私の意識に黒い幕が落ちた。

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ヴィーツェ・ヴィ・コール 井上ハル @Sukard

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