ヴィーツェ・ヴィ・コール

井上ハル

泥地

 Si vis pacem,para bellum.―――汝平和を愛さば、戦への備えをせよ。


 そういう、言葉がある。


 僕らは幸運にも平和で、誰もそれが崩れるとは信じなかった。


 僕らは平和を愛していた。崩れると思えない絶対の壁を。寄りかかることのできる大樹を。


 なればこそ、これは……それを、備えを行わなかった僕らへの禊なのだろう。罪を濯ぐ唯一の方法なのだろう。


『どうして』


『ねえ、どうして―――』


 誰もが狂うあの世界で、一人正気を保っていたあの少女が倒れたあの日が。


 孤独に見ないふりをしながら、気丈に一輪咲いていたあの花が枯れた瞬間が。


 いやに耳に取り付いて、なかなか離れてくれない。


 ―――――――――――――――――


 まず第一に、両親はもういない。


 随分と乱暴な話であろう。突飛な話であろう。

 だがしかし、私はもう受け入れた。何より時が経った。二人の記憶を溶かし、思い出を風化させるには十分な時が。


 常々残酷だと思う。思っている。昔から。


 特に称すべき才能も持ち合わせていない私は、簡単に記憶を失ってしまう。もう、確かな声も思い出せない。顔も。ふるまいも。その立ち姿も、大きかった背中も。


 二人が居ない年越しも、これで三度目だ。


 ……常々、残酷だと思う。思っている。これからも、ずっと。


 気づけば、茶碗の中の蕎麦が伸びきっていた。食べれる気もしないので、シンクに丼を傾ける。我先にと飛び出す蕎麦とともに、小さくため息が漏れた気がした。


 空っぽの三角コーナーが名についた。

 ……流すべきはここだった。もう一度、ため息が漏れた。


 ふいに意味なく点けっぱなしにしていたテレビから、小さな鐘の声が届けられる。始まった。


『夜』を『除く』と書いて『除夜』。そこに『今年は悪しきものだった、ならば来年は――』といういささか乱暴な理論が見え隠れしていると感じるのは、私が捻くれているからだろうか。


 煩悩を殺す一〇八の鐘は、空へとその音を響かせる。

 幸せに、しているだろうか。


 ――これまたふいに、神社へ行ってみようかという気持ちに襲われた。


 気持ちが子供から大人へ切り替わる時期――即ち思春期というものと、天から降ってきたように両親が天へ昇って行ったことが同時に起こった私に、初詣に行こうかという気は全くと言っていいほど起こらなかった。いや、蓋をしていただけかもしれない。一人で行くのは悲しいから。もういないのだと、分からされるのが怖いから。


 神棚を見上げる。あのお札ももう三年になるのか。丁度いい、持っていこう。


 ハンガーに掛けていた外套コートを羽織り、マフラーを首に掛ける。

 靴を履いて、「行ってきます」と言おうとして――止めた。


 聞く人もいないのだ、言う必要もないだろう。


 代わりに、ため息が洩れた。


 ▼ ▽ ▼


 コートも、マフラーも、道路も、建物も、真っ白に塗られていく。

 世界そのものが白くなったんじゃないかという錯覚に襲われつつも、ただ鐘の音に耳を傾けた。


 五八、五九、六〇――いつの間に半分を超えたのか。亡霊のように道を歩いていた自分に我ながら唖然とする。こつこつという靴の音が、神社に向かうほどに多くなっていった。


 友達、恋人、家族。様々な形態で、様々な目的で、かなりの人数がコンクリートを埋め尽くし、その門をくぐる瞬間を今か今かと待っている。さほど背が高くない私は、その人ごみに隠れて神社の本殿を見ることができない。

 人の頭の向こうから、火の粉が舞っているのが見えた。境内で炎が燃え上がっている――俗にいう『大祓い』――というものか。


 できることなら祓わないでほしい。悲しいから。もう殆ど残っていない二人の記憶が、更に薄れるような気がするから。


 牛か羊かのように、その人混みは前進を行う。それに釣られるようにして、火の粉が大きくなり始め、その全貌を、こちらへと見せるべき実像を浮かび上がらせていく。


 果たしてそれは生か、死か。大抵の人はその二択ですら出せないし、何よりそんなことを考えている人はいない。


 門を抜けるころには、最初の人込みは何処へやら、もう行列などというものは見えなくなっていた。


 天照大御神の札を受け、石畳の真ん中を歩かないように気を付けつつ、境内の真中にある本殿へと足を進める。


 古めかしい漆塗りの木材を集めたような建物は、最早存在感という肩書では表せないほどにその自己を確立させている。

 

 現代のコンクリ溢れるこの町でも、その雰囲気が崩れ去ることも消え去ることもない。私が好きな場所のひとつだ。尤も、2人がいなくなってからは一度も来ていないが。


 白い装束に身を包んだ神主が砂を掃いている。浅葱色の袴が少し茶色く汚れているのが、炎に照らされて浮かび上がっていた。


 炎に炙られ、左の頬が温かくなる。代わりに右の頬が冷えているのが、イヤというほどわかった。

 それより大変なのが耳である。イヤーカフでもつけてくるべきだったかと頭を回しても、事実ここにはそれがないので諦めた。諦めよう。


 左の手袋を鞄に押し込んで、その温かさをひとり享受させる。あったかい。

 右手にも共有するかと思い立ち、右の手袋も鞄に押し込んで、左の手に重ねる。冷たい。


 左の頬に右手を重ねてみる。冷たい。


 冷たい?


 左手が冷たい。


 ふと左側へ首を傾ける。

 空に輝く月光に照らされ、石畳がほの暗い光を反射している。

 そこに、煌々と輝いていた炎の光はない。


 おかしい。


 僅かに残っていた眠気が押し下がる。

 があがあと啼く鴉の声が、鞄から滑り落ちた一枚の札が、背筋を凍らせた。

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