第7話 セックス依存症
冷蔵庫に隠れていた少年が助け出されたのは、偶然だったのか、何かが見えたからなのか分からなかったが、その時、まったく少年の記憶は失われていたという。
「これだけのショッキングなことがあったんだから、トラウマにもなるだろうし、記憶を失うのもしょうがない」
ということであったが、その記憶もすぐに戻った。
しかし、少年は、
「記憶が失われていた時期に、知り合った人や、その時のことも忘れていなかった。だから時系列としては、繋がっている」
ということだったのだ。
それを知った医者も、
「これは珍しいですね」
という。
何が珍しいのか、その時分からなかったが、どうやら、記憶喪失の時のことを、記憶が戻った時も覚えていることにのようだった。
その話を思い出した治子だったが、
「この人はどっちになるのだろう?」
と感じた。
「私が目の前にいても、私のことを覚えていないなんて、悲しいわ」
と感じたのだ。
そんなことを考えていると、治子も、
「かつての自分」
の忘れていたことを、徐々に思い出してくるのだった。
それは、
「忘れてしまいたいと思って、必死に忘れ去ったことであり、なるべくなら、思いだしたくない」
と感じることだったに違いない。
そのことを考えると、治子は、
「私も、記憶喪失だった時期があったかのように思えた」
と感じた。
というのも、記憶としては、
「時系列にずれがあった」
という思いがあったことで、自分に、
「記憶喪失の時期があったということを忘れてしまっていた」
のであった。
そして、
「その頃がいつだったのか?」
ということを思い出そうとすると、意識としては、
「つい、最近だった」
と思えてならないのだ。
なぜなら、その時の自分が、どういう女だったのかということを思い出したからだった。
本来なら、
「思い出したくない記憶」
というものが、フィードバックしてきたのだ。
その記憶というものが、昨日連れて男性を連れて帰ったということでよみがえってきたのだ。
そもそも、
「いくら放ってはおけない」
といっても、何があるか分からない男性を家に連れて帰るなど、普通ならありえないではないか。
それができるというのは、それだけ、
「自分の知らない自分がいる」
ということになるのだろう。
それが記憶を失っている時の自分であり、その時どういう気持ちになっていたのかということを想像すると、恐ろしくなるのだ。
それが、
「本当の自分だというのだろうか?」
ということを考えると、実に恐ろしい気持ちになってくるのである。
その時に感じたのは、自分が、
「魔性の女」
のようになっていたのではないか?
ということであった。
というのも、記憶喪失の間、自分の身体に異変があったことを自覚している。
最初はそれが何なのか分からなかった。
ただ、
「たまに、たまらなくなって身体がムズムズする」
ということであった。
そして、そんな体質に気付き始めてから、そんなに時間が経っていない時、見知らぬ男が、
「治子。治子じゃないか?」
といって、なれなれしく近寄ってきた、
治子とすれば、何が起こったのか分からないということで、
「どうしたんですか?」
と冷静に聞いてみると、
「何だよ、治子。そんな他人行儀な態度、お前らしくないじゃないか?」
というのだった。
「何だ? この男、いきなりお前呼ばわりしてくるなんて」
と治子とはムッとなったが、
「ひょっとして記憶喪失の時の私を知っていて、それで声をかけてきたのかも知れない」
と思うと、むげにもできないと感じた。
ゆっくり聞いてやろうと思い、何も言わずに自由に喋らせようと思った。
「いやぁ、あの時は楽しかったじゃないか、久しぶりにあんなに乗りのいい子に出会ったと思ったくらいだったよ」
という。
「あの、誰かと勘違いしているんじゃありませんか?」
と言葉では言ったが、
「治子」
などという名前、偶然でもそんなに当たるわけもなく、いっては見たものの、この男が自分を知っていることは当たり前だと感じたのだった。
「いやいや勘違いなんかしてるわけないよ。豊島治子さんだよな?」
というではないか?
治子はビックリした。
「私が、他人にこんなに簡単に名前を教えるなんて。いや、ひょっとすると、学生時代か何かの知り合いで、その人が私に声をかけてきたということなのかも知れない」
とも思ったが、学生時代の頃の面影が残っているとも思えない。
それでも、治子の名前を出すのだとすれば、
「一度どこかで再会した」
ということになるのだろう。
「私をどうして知っているんですか?」
と聞くと、
「嫌だなぁ、覚えていないのかい? 半年くらい前に知り合って、仲良くなったじゃないか?」
と言われ、
「半年前というと、ちょうど、一時的な記憶喪失だった時代」
ということを感じたが、それにしても、もう一つ感じた疑問をぶつけてみた。
「仲良かったというわりに、それからすぐに音沙汰なしになったんですか?」
と、治子がいうと、男は。今度はキョトンとして、
「何言ってるんだよ。あの時のお前が言い出したんじゃないか? 後腐れなしの、これっきりにしようって、でも、半年経ってまた再会した時は、もう一度最初からねと言ったのは、君だったじゃないか」
というのだった。
「えっ? 私が?」
と聞くと、
「ああ、そうだよ。どうしたんだい? 記憶喪失じゃあるまいし」
と言われるので、
「実は」
といって、一時的な記憶喪失だということを話した。
そして、
「その時の私って、どういう感じだったんですか?」
と聞くと、
「ああ、君は実にアッサリとした性格で、竹を割ったようなところがあったので、気軽につき合えたさ。だから、その時の君のまわりには、たくさんの男の影が見えたり消えたりしていたのだ」
というのだった。
「ああ、そうだったんだ。私にはそこまでの記憶がないんですよ。どうしちゃったのかしら?」
というと、
「僕も君のような女性が初めてだったから、正直、嵌ってしまったような気がしたくらいさ」
というので。
「そんなに私は印象深かった?」
と聞くと。
「ああ、君はアッサリのところもあるんだけど、それ以上に素敵なところがあったのさ。何よりも、一緒にいて楽しかったというのが、本音かな」
とは言っているが、
「まだ何かを隠している」
というところがあった。
このままなら、彼の知っている自分にならないと、彼は教えてくれないというような気がしたのだ。
不本意でがあったが、自分のことを教えてもらわなければいけない手前、彼の言う通りの男になろうという覚悟を固めてた。
「私って、そんな羞恥な女だったということかしら?」
と聞いてみると、その言葉を発した自分の身体に電流が走ったかのような気がしたのだ。
「君は、本当に妖艶で、素敵だった。しかも、そんなに派手な女でもなく。黒髪ロングの普通の女の子だったんだ。だけど、ベッドに入ると完全に、妖艶に変わってしまう、それは豊島治子という女性だったんだよ」
というではないか。
それを聴いた時、治子は、
「電流に打たれた」
というような感じがした。
男の言う通りであれば、
「私は、この男に抱かれたことになるということであろうか?」
と感じ、
「確かめたいが、女からそれを聴くのは憚る気がする」
と思っていると、身体の奥から何かがこみあげてくるような気がして、
「この男に抱かれたい」
という気持ちにさせられたのだ。
「抱かれるということは、どういうことなのか分かっているんだような」
と思えば思う程、下半身が、ムズムズするのだ。
「ああ、この懐かしい匂い」
と、まるで、男の匂いを思い出そうとする、治子がいた、
確かに治子は、、どちらかというと、自分が、匂いフェチだと思っていた。
特に普段でも、男性の匂いには敏感になっていたからだ。
満員電車などで、男に囲まれると、気が付けばうっとりとしている自分がいることに気付かされる。
つまりは、
「異常性癖の片鱗を、私は持っているのだ」
ということは、自分でも分かっていた。
それでも、この性癖を感じるのは、いつもということではなく、
「気が付けばそうなのだから、しょうがない」
と感じることがあったくらいだ。
治子は、別に聖母マリアのような女性ではなく、どこにでもいる女の子だというのは、自分でも感じていた。
だから、好きになった人には積極的になるし、自分から口説く時もある。
ただそれは、いつもではなく、
「自分の中の女性フェロモンが放出された時だ」
と考えるようになっていた。
男性の匂いを、その時も感じていた。すると、自分の中から、もう一人の自分が出てくるのを感じた。
抑えようとしたが、できるものではなかった。抗うつもりだったが、しょせん無理だと分かると、
「身を任せるしかないな」
と感じるようになったのだ。
中から出てきたオンナは、治子に向かって微笑みかける、その顔は自分とは、似ても似つかない女だった。
妖艶な雰囲気で男を誘惑する。
「この女だったら、できるだろう。いやあ、羨ましいくらいだ」
と思っていると、
男は、懐かしそうに、
「そうだよ、それそれ、その変化していくところが、治子だったんだよ」
というではないか?
ということは、この男は、記憶のない時に出てきた治子だけではなく、今の治子の両方を知っていて、しかも、変化していくところも気持ち悪いと思わずに、まるで当たり合えのごとく考えているように思えるのだった。
「これが私なのか?」
と戸惑っていると、男は、覆いかぶさるように、治子に抱き着いてくる。
「えっ? こんなところで?」
と思うと、いつの間にか、見知らぬ部屋に入っていた。
どうやら、男に連れてこられた時の記憶が飛んでいるのか、それとも、もう一人の自分が記憶をつないでいたのか。男は、本当にうれしそうだ。
そして、男の様子から、
「この部屋は、男の部屋ではないか?」
と思うと、やはり気持ち悪くなってくる。
「一体、どう考えればいいのだろうか?」
と治子は考えたが、とりあえず、男の部屋にいて、この状況は
「ヤバイ」
と言えるが、逆らうことは無駄な気がした。
「この男、何もかも知っているのかも知れない」
と感じると、怖さも一緒に感じてしまうのであった。
「治子、久しぶりじゃないか?」
と、男に耳元で呟かれると、
「ええ、そうね」
と、自分では言わないようなセリフを平気で言っている。
もう一人の自分が表に出ているので、自分が出ていくわけにはいかない。
それを考えていると、どのようにすればいいのかということが分からなくなってくるのであった。
「男に抱きしめられると、こんなに心地いいのか?」
ということを思い出していた。
今年、30歳になる治子であったが、まさか処女ということはない。初体験は、さほど早かったわけではなく、大学生の一年生の頃だった。
「遅かったというわけでも、早かったというわけでもない普通の時期だった」
と思っていた。
感想としては、
「ああ、こんなものなのか?」
というものであった。
高校の頃から、興味はあり、クラスメイトの話に聞き耳を立てていると、どうやら、気持ちのいいものだということだ。
そのことを意識していたのだが、実際に男に抱かれてみると、それほど気持ちよかったという気がしなかった。
ただ、人がいうほどの、痛みがあったわけではなかったので、それはよかったのだが、それだけに、感想は、
「こんなものなのか?」
ということだったのだ。
実際に、
「私が嫌だったということはなかったわけだろうが、相手の男は、かなり萎えていたようだった」
とも思っている。
本当であれば、
「あなたが、下手だったのでは?」
といってもいいレベルだったのだろうが、それは言えなかった。
経験もないくせに、いろいろ経験しているかのように思われるのは、嫌だったからだといえるだろう。
だから、それから、しばらくセックスをしたくないと思ったし、実際にする機会にも恵まれなかった。
しかし、
「もういいだろう」
と思ったのが、大学三年生の頃だった。
今度は一年先輩を自分から誘惑してみたのだ。
「先輩が放っておけば、すぐに卒業してしまう」
ということで、思い切ったことだとは思ったが、治子は一世一代のつもりで、先輩にアクションをかけた。
「どうしたんだ? 豊島君、いつもの君ではないみたいじゃないか?」
と先輩はたじろいでいる。
その様子を見ていると、
「私を奪って」
という、何とも大胆な言葉が口から洩れていた。
先輩は、本当にたじろいでいて、たじろがれるほどに、治子は自分が興奮してくるのを感じた。
「絶対に先輩に抱かれたい。そうじゃないと、このまま私はどうなってしまうのか、分かったものでもない」
ということであり、
「こんな自分がまさか?」
と思いながらも、
「これが私の正体なのだろうか?」
ということを考えるしかなかったのだ。
これが、治子の正体だといってもいいのではないかと思うのだった。
男は、治子の肌に指を合わせてくる。
特に腕から、腰に掛けてのラインを指でなぞられると、身体が、ビクンと反応するのであった。
「気持ちいい」
言葉が吐息とともに溢れてくる。
そして、その吐息には、湿気を帯びた感覚があり、少しハスキーとなったその声に、男も興奮しているようだった。
「この人も私と同じように、血液が逆流し、ある一点に流れ込み、そこでは、ドックンドックンと脈打っているに違いない」
と感じたのだ。
その時、初めて、
「合体した感覚を覚えた」
いや、
「覚えたというよりも、思いだした」
と言った方がいいかも知れない。
「これが、本当の私なのかしら?」
と感じると、快感に身を任せている自分だったはずなのに、、男を求めているのも、感じた。
しかし、それはあくまでも、自分が感じていることではなかったはずだ。
それを思うと、この男は、自分が、どうなってきているのかということが分からなくなってきているようだった。
「相手の男も同じかも知れない」
と、治子は感じた。
「私って、こんなに相手を求めるような女だったのかしら?」
と感じる。
「ええ、そうよ、そうだったのよ」
とどこかから声が聞こえる。
「誰?」
と聴いても相手は何も言わない。
その時は、その言葉だけだったのだ。
その声が遠ざかっていくのを感じると、それと同時に、男性の体臭が、鼻を突いた。
「ツーン」
という臭いがしたかと思うと、普段であれば、吐き気を催すかのような臭いに、自分が酔っているのだった。
「ああ」
思わず、声が漏れている。女の身体に覆いかぶさる男の姿、いや、背中を見詰めているのは、以前から好きだと思っていた治子は、自分の発想で、まさにその雰囲気を味わっているかのようだった。
無意識に、妄想している自分を想像すると、本当に、
「自分が自分ではない」
ということが感じられるようであった。
明らかに何かのスイッチが入っていた。忘れていた何かを思い出したような気がする。男は完全に興奮していて、息遣いもハンパなかった。
「はぁはぁ」
その声のテンポが機械的に聞こえれば聞こえるほど、そのいやらしさがこみあげてくる。
「感情のない。機械のような動作」
そこには、本能に身を任せるという動物による、
「性の営み」
を感じさせる。
「動物たちのセックスって、愛情を感じてしているんだろうか?」
と頭の中で考える。
もちろん、知能のランクによるのだろうが、
「愛情を感じないと、セックスができない」
などと言っている人間とは違うのだろう。
そういう意味で、
「動物には、人間のような嫉妬の気持ちというものがあるのだろうか?」
と思うのだ。
なるほど、確かに、
「理性」
あるいは、
「嫉妬心」
さらには、
「羞恥心」
などというような、性的な神経があるから、人間には、
「愛情というものがないと、セックスはできない」
などと言われるのだ。
だが、果たしてそうだろうか?
人間に限らず、セックスをする意義として共通していることは、
「種の保存」
である。
「子孫繁栄」
のために、子供を未来に繋いでいくための行為がセックスなのだ。
人間には、そのために愛情という、
「足枷」
がある。
前述のように、
「愛情というものがないと、セックスはできない」
ということになれば、愛情を持つことのできない人間がいれば、その人の家系はそこで途絶えてしまうことになるだろう。
基本的に、そんな理由で家が途絶えたという話は少なくとも聞いたことはない。理性や羞恥心のために、セックスができずに、家が途絶えたなどといえば、誰も同情はしてくれない。
「そんな精神だから、子孫ができないのなら、そんな家は滅んでしまえばいい」
というくらいではないだろうか?
もっとも、戦前までであれば、それでも、何とかして、養子縁組をしてでも、家の存続を考えるだろう。江戸時代のように、幕府から因縁を吹っ掛けられ、改易という取り潰しにあったところも、無数にあった。それなのに、
「セックスができない」
などというのは、ある意味、甘えているとしか思われないではないだろうか。それこそ、
「ご先祖様に申し訳が立たない」
と言ってもいいだろう。
治子は、臭いを嗅ぎながら、自分がこの臭いをマジで好きだったということを思い出していた。
「この臭い、懐かしい」
と感じたからだ。
懐かしさもあるが、
「臭いというものが、こんなに香ばしく感じられるものなのか?」
ということを感じたのだ。
その臭いの正体が何なのかというのは、今までの治子であれば、吐き気を催してきたのだっただけに、
「私は、どうなってしまったのだろう?」
とも感じたのだ。
いや、それよりも、この自分の変わりようが恐ろしく感じられたのだ。
まさに、自分が二人存在しているような、そして、どっちが本当の自分なのかということを思い知らされた気がしたのだ。
「私って、こんなに男性を求める女だったなんて」
と思うと、
「魔性の女」
どころではなく、どちらかというと、贔屓目に見るからなのか、
「寂しがり屋なのかも知れない」
と感じるのだった。
寂しがり屋で男を求めるというのは、少し違うのかも知れないが、その違いが分からないほどに、これまでの治子は、思っていた以上に、純情だったということであろうか?
それを思うと、
「私が、男を求めているのか、私を求める男がどういう男かということを分かっていて、その相手に合わせることができるという、能力を持っているのだろうか?」
ということすら考えるようになっていた。
「私にとって、男性というのは、何かの対象であり、それが、まるで、自分を写す鏡であるかのように感じてしまうのだろう?」
と、思ったよりも、先を見ているような自分を感じるのだった。
ただ、純情だと思っていたのも、間違っていないし、まわりからの目もその通りだったのだろう。
ただ、近寄ってくるのは、なぜか、おかしな男ばかりだったようで、友達から、
「あんたは、変な男を吸い寄せるフェロモンのようなものを持っているのかも知れないわね」
と言われていたのだ。
その時は、友達もそれ以前から、そんなことを一切言っていなかったのだが、何度か変な男が付きまとっているのを見て、溜まらず、口にしたようだ。
「気を遣って言わなかったけど、もう、ここから先はあなたが自覚をする必要があるということよね」
といって、助言をしてくれるのだが、実際は、本人も分かっていた。
「確かにおかしな男が寄ってくるのは、前から分かっていたわ」
というのだった。
ということを考えていると、本当に変な男がやってくるのを感じると、指摘されたことで余計に気にするようになり、
「余計なことを言われてしまった」
と口にしてしまうと、それは角が立ち、喧嘩の原因になってしまうので、口にすることはなかった。
それでも、最近では、慣れてきたのか、自分も変態のように思えてきたからなのか、それほど、
「変な男」
が近づくとは思っていなかったのだ。
「大丈夫?」
と友達に言われても、
「何が?」
とこっちがキョトンとすることで、拍子抜けされるという、そんな滑稽なことになってしまっているのだった。
それを思うと、
「慣れてきたことで、自分が本当は変態なのではないか? ということが分かってきたような気がする」
ということだったのだ。
「セックス依存症」
そんな言葉が、頭をよぎった。
誰かに言われたことがあった。そして、そのショックの下に、病院を訪れた。一縷の望みとして、医者から、
「そんなことはありません」
というお墨付きをもらいたいからだったのだ。
病院に行ってみると、先生は難しい表情をするわけではなく、診断結果を言い渡す時も、決して表情を変えることもなかったので、
「よかった。たいしたことないんだわ」
と思ったのもつかの間、
「あなたは、セックス依存症ですね。それと、双極性障害の入り口くらいにいるようです。精神疾患の一歩手前ですね。ただ、今の状態ですと、いかようにもなるので、キチンと治療をしておかないと、どちらの症状に移行するか、分からないというところがありそうなので、そのあたりは気を付けておいた方がいいかも知れませんね」
ということであった。
それを聴いた時、最初は、
「何を言ってるのかしら・」
と、治子は、若干信じられないという思いが強かった。
だから、正直、
「どうでもいいや」
という感じになったのも、無理もないことであり、
「もう、医者のいうことなんか、聴けないわ」
と、医者の診断を自分で勝手に、無視するという、暴挙に出たのだった。
それがいつのことだったのか、治子はそんなことを言われたということすら忘れてしまっていた。
わざと忘れようとして、忘却の彼方に持っていったのか、自分でもよく分からない。
しかし、そのおかげで、
「都合の悪いことは無視をすればいいんだ」
ということができるようになった。
「これも、一種の怪我の功名というべきか?」
と考えたのだ。
なるほど、ケガの功名だと思えば、実に都合のいいものだ。
治子は、そう思って、わざと、都合の悪いことを自分で封印するという自分なりのすべを覚えたことで、
「生き方のテクニックを手に入れた」
とさえ思ったのだった。
そのおかげで、人生がかなり楽になった。
それまでの人生で、悲惨なこともあったという意識はあるが、封印してしまったので、それを思い出すこともなかった。
「たぶん、思いださなければいけない時になれば、思いだすことができるんだろう」
という感覚だったのだ。
それを考えていると、
「それが今だったあんだ」
と思うのだ。
つまり、今の自分は、
「医者に行って、都合の悪い診断を受けた。だから、忘れようとして、記憶を封印したのだ」
ということを思い出した。
そういえば、今までに、
「何か、記憶の中で、辻褄が合っているのかいないのか、自分で分からない」
という意識があったのを覚えている。
この意識がどういうものだったのか、正直ハッキリとしないのだ。
しかし、自分の中にある辻褄というのは、どこにあるのかということがよく分かっていない。ただ、
「都合の悪い」
というものを排除したら、残るのは、
「幸せな気持ちだ」
ということだからである。
それを、
「逃げに走っている」
という人もいるだろう。
しかし、それも、本人とすれば、
「藁をも掴む」
という気持ちなのだ。
「だったら、医者の言う通りにすればいい」
ということになるのだろうが、治子にとってみれば、
「医者というのも、半分敵だ」
というイメージが強かった。
彼女は、以前、母方の祖母と仲が良かったのだが、その祖母が、体調を崩し、入院した。
最初は、
「たいしたことはない」
という診断で、数か月で退院できるということだったのだが、実際に退院はできなかった。
その退院の前に、この世の人ではなくなったからである。
その経験を中学生の頃にした治子は、
「どうしてそんなことになったの?」
と母親に聞くと、
「医者の誤診だったのよ」
という言葉だけだった。
かといって、医者を訴えるだけの材料がないということで、弁護士に相談はしたが、結果、
「泣き寝入り」
ということしかできなかったようだ。
どちらにしても、医者の方は、
「不可抗力」
であり、誤診を認定するだけの材料はなかったのだ。
それを証明するには、患者側の証明が必要で、そんなものがあるわけもなく、しょうがないことだったようだ。
その時の医者は、その後も何事もなかったかのように、診察をしている。それが、治子には許せなかったのだ。
「こんな理不尽なことがあるなんて」
という、思いだけは、治子は忘れたことはない。
というのは、このことは、決して、
「都合の悪いこと」
というわけではなく、むしろ、
「自分が憶えておかなければいけないということだ」
ということになるのだった。
それを思えば、治子にとって、その時が、確実に、
「自分の人生の数ある中の一つの分岐点であった」
ということなのだろうと思うのだった。
だから、この時、医者への不信感が決定的になった。
「自分に都合の悪い診断は、信じなければいいいんだ」
と思うようになり、その根拠として、
「やぶ医者というものは、一定数いる」
ということを感じているからだ。
世間でもいっていることだし、それを治子は、この時に、
「自分は身をもって経験しただけだ」
と感じたのだった。
だから、自分が、
「セックス依存症」
であるということを否定し、忘却の彼方に追いやっていたが、それを、
「拾ってきた男に思い返されることになった」
というわけである。
しかも、彼は記憶喪失、
「記憶を封印している」
という意味では、お互い様ではないか?
と感じるのだった。
それが、治子の考えであり、男が今日、ここにいるということが、ただの偶然では片付けられないことではないかと、治子は感じたのだ。
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