第4話 道端での拾い物

 治子は、道を歩いていると、ちょうど、電柱が近くにあって、電柱の影に、一人の人間がうずくまっているのを感じた。

 見た目は、思ったよりも小さく、最初は、

「まるで子供か?」

 と感じたほどであったが、子供だと思って見ていると、そうでもなさそうだった。

 どうやら、男の人のようで、少年でも、青年でもない。背中に丸まった様子から見ると、大人の男性であり、嗚咽を催している様子だった。

「酒でも呑んでいるのかな?」

 と思って見てみたが、どうやらそんな感じでもないようだ。

 その証拠に、嗚咽のたびに、咳が出ているようで、下を向いているが、嘔吐物があるわけではなかった。

 呻き声は確かに聞こえるが、その気持ち悪さは、お腹の底から聞こえるようで、本当であれば、

「救急車を呼ばないといけない」

 という事案だったのかも知れない。

「大丈夫ですか?」

 と、治子は、思わず声をかけていた。

 苦しそうにこちらを振り返るが、その顔は、何とも言えない様子になっているのだった。

「どうしたんですか?」

 というと、

「ああ、大丈夫です。少し発作が起きたみたいなんですよ」

 というので、それを聴いて、

「救急車を呼びましょうか?」

 と聞くと、

「大丈夫です、少しゆっくりすれば、落ち着きますから」

 というので、近くにある、線路沿いの公園のベンチに腰を掛けたのだった。

 治子は、近くの自販機で、水を買ってきて、それを呑ませようとした、

 男は、ベンチに仰向けになって横になり、大げさに息を抗えていた。

 ただ、その様子は、あくまでも、苦しそうな雰囲気ではあるが、その様子は、決して大げさというわけでもなさそうだった。

 だが、おもむろにカバンから薬を取り出して、苦しみながらも、そそくさと薬を用意して、持ってきてくれた水と一緒に、薬を喉に流し込んでいるのだった。

 その薬がどのようなものなのか、想像もつかなかったが、

「発作が起きた」

 ということであれば、いつも特効薬という形で、発作が起こった時に飲む薬を用意していたとしても、不思議のないことであった。

 何種類かの薬を、白いプラスチックケースの中に入れて、一回分ということで、いざという時に持っていたのだろう。

 それを思うと、水をまず用意したというのは、

「正解だった」

 ということであろう。

 男が、起こしている発作について、治子も、まったく発作に関しては知識がないわけではなかった。

 自分も、たまに発作を起こしたことがあったのだ。

「パニック障害」

 のようなものだったと思うが、吸入の機械を持っていて、薬を入れて飲む形のものだ。

「癲癇のような発作も起こすかも知れない」

 と医者から言われて、持っているのだが、今のところ、発作が出ることはなかったのだ。

 その発作を、いかに問題とするかということは、医者から言われたこととして、

「病院では、治せないものかも知れない」

 と言われた。

「どういうことですか?」

 というと、

「あなたの病気は、恋愛依存症のようなところがあるように思えるんですよ。誰か好きな人がいて、その人を忘れられないというトラウマがあるんじゃないでしょうか?」

 と言われたのだ。

「恋愛依存症ですか? よく聞くんですが、私のは、何か違うんですか?」

 と聞くと、

「あなたの場合は、何かトラウマのようなものがあって、誰か男性に頼りたいという気持ちがあるんだけど、最後の一線を越える時には、何か越えられない何かの結界があって、そのために、そこで苦しむことになるんですよ」

 と言われたのだ。

「どういうことでしょう?」

 と聞くと、

「ここまで話をして分からないということは、あなたの中で、我々が知らないだけではなく、あなたの中で思い出したくないことがあって、それが、男性によるものではないかと思うんです、だけど、あなたの男性への依存症は、恋愛とは少し違うかと思うのですが、何が一番近いのかということになると、恋愛症候群に近いというように思えてくるんですよ」

 と先生はいうのだった。

 治子は、思い出そうとするのだが、なるほど、先生のいうように、思い出そうとすると、思い出せそうな気がするくせに、それ以上が思い出せないのだ。

「私は、何か、男性の怖い部分と、頼れる部分の両面を知っていて、そのどっちも経験しているので、それが怖くて思い出せないんでしょうか?」

 と先生に聞くと、

「それよりも、もっと深い何かがあるような気がするんですけどね」

 と先生は言ったが、その時は言及しなかった。

 しかし、これは後になって分ったことであったが、先生の言いたかったことは、

「それぞれの極端な面を持った男性であるが、実は、同じ人間だったのではないか?」

 ということであった。

 しかし、

「それだけではないような気がするのは、さらに何かまだ感じるものがあったということなのだろうか?」

 これも考えてみると、時間が経ってくるうちに、思い出していくのだった。

「いや、思い出したというよりも、自分で分かってきたのかも知れない」

 と感じた。

 まったく違った両極端な性格を持った人間であるが、それが実は、

「同じ人間だったのではないか?」

 ということである。

 まるで、

「ジキルとハイド」

 のような性格であり、

 その性格が、どのように、展開したのかというのは憶えていないが、一人は、

「恐怖を感じる、恐喝的な態度」

 というものと、もう一つは、

「一緒にいるだけで、慕いたくなる気持ちが溢れてきて、何も言葉が出なくても、幸福な気持ちになれる」

 というような、両極端な性格であった。

 それは、同じ人物の中に醸し出されるものだということになれば、いかに対応すればいいかということを考えて、

「私の中のジキルとハイド」

 というものを、治子も見てしまったのではないか?

 と思うのだ。

 治子は、時々、

「自分が、夢遊病のように、記憶がないのに、どこかに行ってしまっている」

 ということを感じることがあった。

 もちろん、家の中でのことであるが、そんなに広い家でもないはずなのに、とても広い家を創造しているようで、そこに、まったく正反対の自分という性格がよどんでいて、片方の自分が、もう一人を感じると、もう一人は、その中で、よどんだものを感じてしまい、前を見て歩いているつもりでも、

「そこか、吊り橋の上にいて、どっちの方向を向いていたとしても、見えている距離は変わりがない」

 という風に見えるのだった。

 吊り橋の上の見えているものは、

「来た方向と目指す方向で、ちょうど真ん中にいるというのが、前述のような発想から、前に戻る」

 という風に考えるのだった。

 救急車を拒否した男だったが、その苦しさを見ると、相当きつそうに感じられ、

「何をどうすればいいのか?」

 ということを考えた。

 まずは、水を飲ませ、携帯している薬を飲んで、少し落ち着く。その間、自分がついているしかないということを治子は分かっていた。しかし、今の様子で、本当に楽になってくるのかは、疑問符がついたのだ。

「大丈夫ですか?」

 と、時々声をかける。

「ええ」

 というくらいに返事できるまで回復はしていた。

「言葉が出てくれば大丈夫か」

 と、治子は感じたが、まさにその通りであった。

「ううっ」

 と、時々、嗚咽のような痙攣もしていた。

「心臓病だとすれば、少しおかしいな」

 と、治子は感じた。

 ただ、男は、嗚咽はするが、何かを吐き出すようなことはなかった。

 もっとも、そうなれば、さすがに救急車を呼ぶくらいのことはしないと、いけないに違いなかった。

 だが、

「本当に大丈夫なのだろうか?」

 という思いが頭を巡っていて、

「その場を立ち去ることができない」

 という思いと同じで、この途方に暮れそうな時間経過を、どうやって過ごせばいいのかということを考えるのであった。

 どれくらいの時間が経ったのか、見当がつかないまま、ふと時計を見ると、午後9時半を回っているということで、ここに、

「少なくとも、30分以上はいる」

 ということになるのだろうと、感じたのだった。

 夜もどんどん更けてくると、同じ夜の同じ場所でも、時間によって、雰囲気が変わってくることに初めて気づいた。

 最初にこの公園に来た時よりも、今の方が、明らかに、

「夜が更けてきた」

 ということを感じるのだ。

「同じ場所にずっといると、まわりに慣れてくるから」

 というのもあるのだろうが、果たしてそれだけのことだろうか?

 男の呼吸がだいぶ収まってきた。ただ、このまま放っておくと、眠ってしまいそうな気がしたのだ。

 いくら暖かくなってきたからといって、苦しんでいた人を、このままここで寝かせておくわけにはいかない。

「さて、どうしようか?」

 ということを考えたが、どう考えても、行き着く先は一つしかなかったのである。

「この人を、家に連れて帰るということ」

 だったのだ。

 もちろん、

「自分の家に帰る」

 というのであれば、止める理由もないのだが、この男を見ている限り、

「家に帰る」

 とはいうようには、どうしても思えなかった。

 根拠があるわけではないが、そう思うだけだった。

 男の呼吸が整ってきて、公園の薄明かりの中ではあるが、明らかに顔色もよくなってきているのを思うと

「だいぶ、回復してきたんだわ」

 ということが分かってきたのだった。

「大丈夫ですか?」

 何度となく、口から出てきた言葉だが、この時の言葉には、自分でも重みがある気がしたのだ。

「うん、だいぶ楽になってきたので、大丈夫なようです」

 と、自分の口から、初めて、

「自分の様子」

 を語ることができたのだった。

「もう少しだけここにいて、どうしますか?」

 と聞くと、

「このまま、ここにいます」

 というので、治子は間髪入れずに、

「じゃあ、私の家に」

 とまくしたてるように言った。

 ただでさえ、答えを出す暇も与えないというほどだったのだが、男も最初から、

「あわやくば」

 と思っていたのかも知れない。

「ええ、分かりました」

 と、二つ返事で答えたのだった。

 治子は、もう完全に安心しきっていた。そう思って、男を見ると、その美しさに自分が魅了されていくようだ。

 最近のアイドルであったり、モデルなどのような、どこかチャラさを感じさせる青年ではなく、

「昭和の格好よさ」

 というのがあるとすれば、

「こういう人のことをいうんだろうな」

 と、治子は感じていた。

「私にとって、相和は、憧れなのよね」

 と思っていた。

 大学時代には、

「昭和史研究会」

 というサークルに所属して、昭和という、

「古き良き時代」

 をリスペクトしていたのだ。

 もっとも、彼女が昭和に興味を持ったのは、

「最初の20数年が、大日本帝国という立憲君主の国であり、そこから先が、米国による民主国家としての日本国」

 という、まったく正反対の国家体制が築かれていたということであった。

 そんな時代背景を考えると、治子は、

「どっちの昭和が好きなのか?」

 と聞かれると、

「答えに困る」

 という。

 しかし、

「じゃあ、どっちの昭和に造詣が深い」

 と聞かれると、

「戦前戦後くらいの時代かしら?」

 と答えるのだった。

「それは、どうして?」

 と聞くと、

「その時代の探偵小説が好きなのよ」

 というのだった。

 探偵小説というのは、今でいう、

「推理小説」

 であったり、

「ミステリー小説」

 と呼ばれるものであった。

「特に私は、そんな時代の本格探偵小説が好きなの」

 というではないか?

「本格派というと?」

 と聞くと、

「探偵小説には、本格派と、変格派という考え方があるのよね? 正式に分類化されているわけではないけど、業界で言われている用語とでもいうのかしら。それで、変格派というのは、猟奇犯罪であったり、耽美主義であったり、変質的な犯罪や心理を描いたものなのよ。その中には、SMも入ってきたりして、性的傾向もあるといってもいいかも知れないわね」

 という。

「ふむふむ」

「そして、本格派というのは、今の推理小説のように、トリックや、犯罪ストーリー、探偵による謎解きの巧妙さなどで勝負する小説ね。私はこの本格派が好きなの。それも、今の推理小説ではなく、この時代の探偵小説ね」

 というのだ。

「どうしてなの?」

 と聞かれると、

「今と時代がまったく違っているでしょう? 国家体制も世界情勢も、人々の考え方もまったく違う。当然、目に飛び込んでくる光景も、まったく違うわけで、もっといえば、家や街一つ取っても、まったく違った世界ということよね?」

 というではないか。

「なるほど、その時代の本格探偵小説が好きなんだね?」

 と聞くと、

「ええ、そうよ。あの時代は、探偵小説の黎明期ではあったんだけど、今につながるものが、グッと凝縮されているのよ。それを思うと、すごく貴重な時代だといえるのかも知れないわね」

 という。

「どういうところが?」

 と聞くと、

「あの時代でも、トリックと呼ばれるものは、ほとんど出尽くしていると言われているのよ。だから、後はバリエーションの問題だというんだけどね。あの時代は、バリエーションを利かせられるほど、裕福な時代ではないんですよ。ただ、私たちが想像する分には、いくらでも、古い時代を想像し、妄想だってできるんです。それを思うと、まるで、何が出てくるか分からない、ビックリ箱、いや、見方を変えると、そこにあるのは、宝石箱なのかも知れないと思うのよ」

 というのだった。

 彼女に言われて、その時代の探偵小説を読んだ友達は、

「なるほど、治子の言っていることに間違いないわね」

 といって感心したのだった。

私もね、探偵小説に憧れて、何本かミステリーを書いてみたことがあったのよ。でもね、結局は読む分には、想像できる時代背景も、自分が書こうと思って想像すると、その時代はどうしても書けない。昔に生きていれば、想像でいいんだけど、今の時代から思い起こそうとすると、創造になってしまう。これが決定的な違いなのかも知れないわね」

 というのだった。

 結局治子は、想像しかできず、現代推理小説を書くしかなかったのだ。

 それでも、彼女の書く小説というのは、そこそこの評価を受けていた。

 もちろん、素人の集まりの中でのことだが、別にプロになろうとか、本を出したいとかいうような、

「野望」

 を持っているわけではないので、別に意識することもなかった。

 それでも、評価してくれる人がいるのは嬉しいことで、

「この人の作品は、どこか、ノルマルでないところがある」

 というのだ。

 知らない人が聴いたら、

「ディスられている」

 と感じることだろう。

 しかし、ディスられているくらいの方が、評価としてはレベルが高いといってもいいだろう。

 それだけ、彼女の小説は、

「捉えどころがない」

 というところで、ミステリー界隈の誉め言葉としては、結構いいことなのではないだろうか?

 当時の探偵小説の本格派は、探偵の謎解きと、トリックに特化しているといってもいい。そこに、サスペンスタッチを入れたり、恋愛を放り込んでくる作家もいるが、それは異色だった。

 特に、昔から、

「探偵小説と恋愛ものは、あまり相性がよくない」

 というようなことを言われていたが、まさにそうだったに違いない。

 しかし、治子が尊敬する探偵小説作家というのは、そういうタブー的なことを平気ですう人で、

「探偵と、元は犯罪計画を企んでいた連中の娘として育った女性が、いずれ結婚するという話を書いたりしていた」

 というのだ。

 そんなところが、彼女を魅了し、彼女だけでなく、大衆の心を掴んでいたのだろう。

 当時としても、探偵小説界の第一人者で、今では、

「レジェンド」

 といってもいい存在である。

 日本では、

「三大探偵小説作家

 を挙げるとしたら、ということで、数名の名前が幾通りにか出来上がったとしても、絶対に漏れることがないといえるだけの作家であることは間違いない。

 下手をすれば、黎明期から現代までのミステリー作家のベスト3を選んだとしても、

「絶対入る」

 といっても過言ではないだろう。

 そんな探偵小説作家は、今では、

「有名文学賞」

 に名前を残していて、まるで、

「ミステリー界の、芥川賞」

 と言われるような人物だ。

 それこそ、日本文学史において、

「ミステリー界の父」

 といってもいいだろう。

 そんなミステリーを治子は書いたというが、

「黎明期の探偵小説に近いなんてこと、恐れ多くて言えるわけもないです」

 というのだった。

 治子は、

「今の推理小説って、あまり読んだことないんだけど、それは、読む気が失せるということなのかも知れない」

 と思っていた。

 最初から今のミステリーを読んでいるならいいが、昔の探偵小説を見てから、今の話を見ると、

「とてもじゃないけど、比較にならない」

 と思うのだった。

「時代が進んで、途中でピークを迎えると、その落ちて生き方は、ハンパなものではないな」

 と思うようになっていた。

 ただ、底辺に近づくと、その勢いが急ブレーキがかかったようになり、一気に地面に衝突するようなことはなくなるのだった。

 そんな時代を潜り抜け、まるでタイムリープしたかのように探偵小説の時代に戻ったとすれば、どこまで理解できるというのだろう?

「タイムリープ」

 それは、人間そのものが、時代をさかのぼるわけではない。

 意識と魂のみが、過去の戻るのであって、ただ、そうなると、

「誰に乗り移るのか?」

 ということが問題になるが、そうでないと、タイムパラドックスが起きるからだ。

 それを起こしたくないとするなら、自分の過去に乗り移るという、

「タイムリープ」

 になるということだろうが、理屈からいえば、

「自分が生きている時代にしか、過去にも未来にもいけない」

 ということになる。

 そういえば、あるSF作家が面白いことを書いていた。

「タイムスリップと、タイムリープの両方が、存在しているのが、この世界だ」

 というのだ。

 そもそも、タイムリープは、タイムスリップの矛盾、つまりタイムパラドックスを解消させるためのものだというが、そのどちらも、発想としては、中途半端だ。

 つまりは、

「自分が正損している間だけは、タイムリープで、存在しない時代であれば、タイムスリップだということにすれば、ある程度の辻褄が合う」

 ということなのだろうが、

 それでも、すべての矛盾を網羅できているわけではないのだ。

 過去にいくタイムスリップで、自分がまだ生まれる前であれば、タイムリープは成立しないので、タイムパラドックスしかないのだが、これで、大丈夫というわけではない。実はこの時代が一番危ないのだ。

 というのも、生まれてくればいいが、生まれてくるのを邪魔することだって、時代を変えてしまうことには違いない。

 つまり、よく言われることとして、

「生まれてくる前の父親を殺してしまう」

 ということである。

 そこまでしなくとも、

「両親の出会いを妨げて、お互いに結婚することがなくなれば、永遠に、自分は存在しないということになる」

 ということだ。

 これが、昔SF映画で出てきたことであるが、物事をもっと簡単に考えれば、その矛盾も解決できるのだ。

 というのは、

「何も自分の存在に、両親というものを結びつけるからそうなるのだ」

 ということである。

 過去の歴史が歪んでいて、誰と誰が結婚しても、同じ日に生まれた子供であれば、自分になりえることができ、近所の子供と入れ替わった世界になっているのだが、結果、歴史が変わって、意識の中で、電光石火にて、

「記憶が塗り替えられた」

 としても、それは、矛盾しているということにならないのかも知れないということであった。

「それを考えると、そもそも、歴史が変わったとしても、全員が全員、変わった歴史を意識の中で受け入れられるのであれば、タイムパラドックスなるものは、存在しないといってもいいのかも知れない」

 と言えるのではないだろうか?

 それが歴史というものであり、

「パラドックス」

 という矛盾も、矛盾ではないといえる根拠なのかも知れない。

 だとすると、

「タイムマシン」

 というものの開発も一気に加速するかも知れない。

 何しろ、

「タイムパラドックスの問題があるから、滞っていたわけで、その問題という足枷が外れれば。一気呵成に謎が謎でなくなり、見えなかったものが見えてくる」

 そう考えると、

「世の中の矛盾というものの半分以上が解決されること」

 として、あっという間に理屈が横のつながりとして繋がっていくというものではないだろうか。

 治子は、そんな昭和に思いを馳せているだけで、探偵小説に造詣を深くし、さらに、タイムリープとタイムスリップの考え方から、

「タイムパラドックス」

 というものの、

「矛盾というものを、矛盾ではないような考え方になるようにしてきた」

 ということである。

 そんなことを考えて、目の前の男性を見ていると、

「おや?」

 という思いがこみ上げてくるのを感じたのだっだ。

「どういうことなんだ?」

 と勝手に考えていたが、

「SFというものは、奥は深いが、考え方一つで、簡単に考えることができ、そのおかげで、いくらでも、前に進むことができるのだと考えるようになった」

 といってもいいだろう。

「タイムパラドックスは、そんなに難しくない」

 と思っていると、

「タイムリープがその解決法だ」

 と聞いた時、思わず吹き出してしまいそうになった。

「タイムリープなんか、前から知ってるぞ」

 と言いたいのだろう。


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