第2話 親友という存在

「バブル経済の崩壊」

 という問題があったのだった。

 バブル経済というのは、いわゆる、

「イケイケどんどん」

 と呼ばれる時代であり、

「経営を拡大すればするほど、儲かる」

 という言葉が信じられていて、いろいろな神話があったりした。

「銀行は絶対に潰れない」

 などというのもその一つで、バブルが弾けると、真っ先に危険となってきたのが、

「銀行を中心とする、金融業界」

 だったのだ。

 とにかく、お金や不動産をうまく運用することが、金儲けの基本だったのだ。

 だから、企業は挙って、新規事業に参入するのである。そして、参入すればするだけ、儲かっていく。受注はいくらでもあるからだった。

 そこに、インフラ整備がどんどんよくなっていき、

「人手不足」

 と言われるほどに、失業者があふれるようなことはなかった。

 だから、就活にしても、企業側は、内定を出した学生を手放さないように、入社前から、「一席設けたり」

 あるいは、

「研修」

 と称して、海外旅行に連れて行ってくれるというのが蔓延る時代だったのだ。

 そんな時代においても、会社は発展していく。

 そして、個人でも金融を運営している人がいて、

「株や土地で大儲け」

 をしていたのだ。

「土地ころがし」

 などという言葉が流行ったくらい、土地を右から左に動かすだけで、相当なお金が入ってくるというわけであった。

 そんな時代が、長く続くわけもないというのは、今だから分かることであり、誰もが、

「バブルの崩壊」

 などということを予測しただろう。

 した人がいたとしても、

「そんなバカな」

 ということを言われるだけで、鼻で笑われるということになる。

 だが、実際にバブルが弾けると、まず最初に攻撃されるのは、銀行だった。

 そもそも、銀行というところは、基本的に、

「金を貸し出して、その利息を儲けとする」

 というものだったのだ。

 特に、バブルの時代のように、

「回収がほぼ完ぺきに行われていた」

 ということであるから、貸す方も気前がいい。

 つまり、

「80万年、貸借したい」

 と企業が言ってくれば、

「100万円でどうですか?」

 といって、余裕のあるお金を貸し出すという、

「過剰融資」

 というのが蔓延っている。

 すると、

「20万円分の利子が余計についてくる」

 というわけで、銀行も儲かるということだ。

 しかし、歯車の一つが崩れると、企業がお金を返せなくなってくる。そうなると、

「貸し出した分、すべてが焦げ付くことになり、利子で儲けるなどという状況ではなくなる」

 ということになるのだ。

 だから、銀行は、そんな貸倒しが膨れ上がり、いわゆる、

「不良債権」

 となり、

「借金が焦げ付いて、お金が回らなくなる」

 ということになるのだ。

 なぜ、そうなるのかというと、

「世の中のほとんどが、自転車操業で成り立っている」

 ということだからだ。

「まず儲けるためには、会員を集めたり、顧客になる人を募る必要があるので、宣伝費が必要になり、そのためには、従業員を増やさなければならないので、人件費が必要となる」

 というところから、

「集めた会員が、どれだけ買い物をしてくれるか?」

 ということのために、いい商品を開発したり、今度は客に宣伝するという、営業活動が必要になってくる。

 つまりは、

「売り上げを見越して、宣伝費や人件費などを供出するのだが、最初は赤が続くのが分かっていて、それでも、どこから黒に転じるか?」

 ということを見越して、

「長期経営計画」

 というものが練られるのであった。

 ただ、それも、すべてがうまく絡み合うことで、回っていくのがベストなのだが、そのうちにどこかでひずみが出てくると、経営は一気に、傾いてくる。

 さらに、

「どの部分が悪いのか分からない」

 ということになると、結果、

「訳が分からないままに、破綻してしまう」

 ということになりかねない。

 結果として、

「従業員が路頭に迷い、関連会社の零細企業は、一気に連鎖倒産の憂き目にあう」

 ということになるのだ。

 こんなことは、

「バブル崩壊」

 であろうとなかろうと、分かり切っていたことなのだが、

「銀行は潰れない」

 などといういくつかの神話というものが、災いしているといってもいいだろう。

「神話が迷信に変わった時」

 それに気づいた時は、

「時すでに遅し」

 ということになるのだ。

 会社からの帰り道で、ちょうど曲がる角から先は、人がほとんどいない。

 もちろん、時間帯ということなのだろうが、そこから先を歩いていく人がいないというのは、

「そこから先が、住宅地だ」

 ということもあるからだ。

 数十年前は、新興住宅地だったところなので、今は、すでに、中年以上の人が、世帯主になっていることだろう。

 となると、子供も成長していて、大学生くらいになっているだろうか。

 結構、大学のある街に、マンションを借りて住んでいるということが多いかも知れない。

 となると、

「皆、移動は車なんだろうか?」

 ということが考えられ、だから、

「歩いていて、人に合わないんだ」

 と感じるのだった。

 治子は、高校時代の友達に、

「親友だ」

 と言われて、嬉しかったことを思い出した。

 その女の子は、実は彼氏がいて、その彼氏が、

「治子のことを好きだった」

 という理由から、治子を、

「親友だ」

 と言ったのだ。

「彼氏が好きになった相手が、彼女の親友だということになれば、さすがに、手を出したりはしないだろう」

 という考えであった。

 治子は、親友に彼氏がいるのは知っていた。そして、その彼氏が自分を意識しているのも分かっていた。だから、親友に対して、

「気まずい」

 と思っていたのだし、その思いがあるから、

「親友と、どう付き合えばいいのだろう?」

 と思っていたのだ。

 まさか、彼氏が、自分に眼が行くようにしないように、自分のことを、

「親友だ」

 と言い出したなどと思っていない。

「知らなかったのは、自分だけだったのだろうか?」

 と感じるほど、自分が、蚊帳の外に置かれているかのように感じたのだった。

 それでも、さすがに、途中から、

「怪しい」

 という思いがあったのを分かった。

 親友は、何かにつけて、

「あなたのことは私が守る」

 というような表現をしていた。

「親友なんだから、それは当たり前のことよね」

 ということだと思っていた。

 しかし、

「親友というのは、お互いに尊重し合って、相手を大切な人だと思い、相手が悩んでいれば、一緒に悩んであげたり、苦しんであげたり、あるいは、前を向いて歩いていこうとしている人と、覚悟を共有できるものではないだろうか?」

 と感じていたのだ。

 だから、

「利用するものでもなく、まず、相手の気持ちを分かってあげられる、そんな気持ちになれる相手が親友だ」

 と思っているのであった。

 そんな親友も、今では大学進学とともに、別の土地に行ってしまい、しばらく連絡が取れなくなっていた。

 気が付けば、その時の彼氏とも別れて、今では、一人なのかどうなのか、考えていた。

 その時、治子には彼氏というのはおらず。

「彼氏がほしい」

 ということも考えていなかった。

 親友だといっていた人も、距離ができれば、アッサリしたもので、お互いに連絡を取ることもなくなってしまっていたのだ。

 その親友の家が、ちょうどこの先にあるのだったが、もう、そんなことを気にもしていなかった。

 親友の名前は、如月いちかという名前だった。彼女は、

「彼氏がいる」

 ということを公言はしていたが、その彼氏を誰にも合わせようとはしなかった。

 本当は、治子に合わせたくないと思っていたのだろうが、考えてみれば、

「特に治子に会わせないようにしよう」

 という思いがありありだった。

 自分にとって、好きな人、そして嫌いな人、それぞれなのだろうが、一歩間違えると、

「一番好きだと思っていた相手が、一番嫌いだ」

 ということになりえるのではないだろうか。

 確かに好きになった人というのが、

「自分にとって、運命の人だ」

 とは限らない。

 むしろ、相手がそう思うかも知れないと思うと、引いてしまう方だった。

 そこが、治子といちかの違いであり、

 いちかの場合は、

「好きになった人が、ずっと自分のことを好きでいてくれないと我慢できない」

 というタイプだった。

 だから、片想いで終わってしまうことを嫌う。

「最後には嫌われてもいいから、お互いの気持ちをぶつけあって、何かの結論が出ないと、我慢できない」

 というタイプだった。

 しかし、治子の場合は、

「相手が自分のことを好きになってくれないのであれば、こちらが好きになるのは、時間の無駄だ」

 と思っている方だ。

 ただ、本当に好きになった相手であれば、それが男であれ、女であれ、

「自分と一緒に前を向いていく」

 ということの覚悟ができると思っていたのだ。

 だから、結果を求めているわけではない。

「自分の気持ちに正直に生きる」

 ということだけを求めていくというのが、治子の考え方だった。

 ただ、そのためには、

「自分の気持ちに対しての正当性が見つからなければ、前に進むことができない」

 ということなのだ。

 前を向いていくということは、

「覚悟」

 というものがある。

 これは、吊り橋の上にいる時に感じることで、

「後ろを向くのが怖い時でも、前を向くのに、覚悟がいる」

 ということになるのだ。

 逆にいえば、

「後ろに下がるにも、その場所に留まるにも、前に進むにも、覚悟は必要なのだ」

 という。

「しかし、前を向いて歩く方が、一番簡単であり、後悔が少ないかも知れない。だから、余計に覚悟がいる」

 という考え方であった。

 つまり、自由であり、何でもできるという発想であっても、結局は、つぶしが利かないともいえるだろう。

 遊びの部分がないと言えばいいのか、

「自由というのが、実は一番難しい」

 と言えるのではないだろうか。

 自由というと、言い訳が利かない。何を言っても、失敗すれば、それは言い訳でしかない。

 そのことを考えるのが、

「覚悟だ」

 ということになるのだといえば、誰もが、

「覚悟というものを持って、生きているのだろうか?」

 と考えてしまうのだ。

「覚悟は自分だけでするものだ」

 ということであり、一緒に歩んでいく相手とするものではない。

 そんなことは、親友が、まだ親友だった頃には分からなかった。

「彼女は親友だ」

 と思っていたが、それだけではなかった。

 その思いは、何か不可思議な印象を持っていて、

「親友という言葉に、違和感を感じていた」

 のだった。

「治子ちゃんは、親友よ」

 と、今から思えば、やたらと、親友という言葉を口にしていた。

 他の人の話を聴いた時、治子の話題が出た時の、親友が治子のことをいうのに、

「親友」

 という言葉を使っていたのだという。

 まわりの皆は、いちかが、

「親友」

 という言葉を口にした時というのは、

「治子のことだ」

 ということは分かっているはずなので、皆分かっているのだろうが、やはり、治子のことだけ名前で呼ばず、

「親友」

 という言葉を使うというのは、違和感しかないような気がする。

 二人のことをあまり知らない人が聴いたのであれば、

「本当に親友なんだろうな」

 と感じるのだろうが、知っている人はそうは思わない。

 いちかの中に、

「治子に対しての見方が、他の人とは違う」

 ということが分かるはずだからである。

 いちかにとって、治子という存在は、きっと、ライバルのようなものだったのだろう。

 最初から、

「彼氏の恋敵」

 という印象がこびりついていたので、

「親友」

 という言葉でごまかしてきたが、

 実際には、

「どこまでが親友で、どこからが、恋敵なのか?」

 ということである。

 普通であれば、

「親友」

 などという言葉は成立しないのだろうが、実際には、

「恋敵というものを、反対から見た時、親友になってしまうのではないか?」

 と感じるのだった。

 ただ、肝心の相手である、治子に、

「恋敵」

 としての意識がないことで、親友と言われると、本当の意味で、素直に見てしまうのだった。

「親友という言葉と、恋敵という言葉は、紙一重だったんだ」

 ということに気付くと、

「長所と短所は、紙一重」

 という言葉を思い出した。

「途中、どこかに結界のようなものがあり、そのどちらを向くかということで、まったく違う。正反対のものが見えてくる」

 ということになるのだろう。

 そんなことを考えていると、まるで、断崖絶壁と言えるような、谷に掛かった吊り橋の上を歩いているかのように思えた。

 断崖絶壁というものを意識していると、まるで、自分が吊り橋の真ん中にいて、

「前に進めばいいのか、後ろに下がればいいのか?」

 ということを考えさせられる。

 他人事であれば、

「前に進めばいいんだよ」

 というだろうが、実際はそんなことはない。

 なぜかというと、前に進んでいたとしても、その先にあるものは、

「もう一度、同じ道を戻らなければいけない」

 という発想である。

「人生などのように、前に進むだけでいいのだろうか?」

 ということを考えさせられてしまう。

 なるほど、確かに人生というのは、後戻りすることはない。

 いや、できない。

 と言った方がいいに違いない。

 前に進んだとしても、その先にあるものとしては、

「先の短いもの」

 ということで、

「それこそが人生だ」

 ということで、先の短さを、

「儚さ」

 というもので創造してしまい、

「寿命というものを、自分自身で決めてしまっているのではないか?」

 ということだ。

 人生の先に見えるもの。それが、一体何であるのかということを考えた時、

「寿命を決めてしまうということは、限界を決めてしまうということだ。逆にいえば、自分の限界さえ決めなければ、寿命などというものは、いくらでも、どうにでもなるのではないだろうか?」

 ということを考えたりする。

 それを人生だというのであれば、

「誰がそれを決めるのか?」

 ということを考えてしまい、

「好きになった人が、自分の運命を決めるというのは、ある意味、おこがましいのではないだろうか?」

「好きになられたから、好きになる」

 ということを、

「肯定しない」

 という人もいるようだ。

 確かに、自分が好きになった相手がタイプなので、

「好きになってくれた相手が本当にタイプなのか?」

 というと難しい。

 しかし、好きになってくれた人には、自分のことを分かってくれようとする気持ちがあるのだ。だから、

「相手に対して、素直になれる」

 ということであろう。

 今まで、好きになった相手に比べて、好きになってくれた人など、圧倒的に少ないだろう。

 治子は、自分のことを、

「惚れっぽい」

 と思っている。

 好きになった相手に対して、一生懸命になるが、逆に、好きになってくれた相手に、どれだけ真剣になれるかということを考えたことがないだけに、考えさせられるというものだった。

「そういえば、高校時代に付き合っていた男の子がいたけど、彼には、サンドバッグになってもらったことがあったな」

 ということを思い出した。

 そもそも、高校時代というのは、精神的に不安定な時だった。

 特に、思春期が、結構長く続いたようで、初潮を見てからというもの、毎回のように生理不順に陥っていて、体育の授業も、休みがちになっていた。

 さらに、中学から続けてきたバスケットも、高校入学とともに、諦めて、部活をする気にはなれなかったのである。


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