3ーPrologue ラギ王暦1617年菜の花月ユフ島
春まだ早い菜の花月、トダ山脈の頂きには未だ雪が残る。
平地よりも春の遅い山間部では、日陰にも冬の名残りが居座っていた。
「ふう〜」
しかし陽射しは暖かく、ランスは外套の前を開ける。心配性の父に無理矢理羽織らされたものだ。
「これだけあれば、大丈夫かな」
腰のカゴにはたくさんの薬草が入っていた。薬師の両親のために、ランスが集めたものである。
「来月からは手伝えないから、今のうちにいっぱい採っておかないと」
ランスは、桜月からシノンにある魔法学校への入学が決まっていた。寮生活が始まり、長期休暇以外は帰れなくなる。
「姉さんも手伝ってあげないとな」
姉のファイエットはランスより四つ年上で、今年十七歳。優しく美人な姉は、ランスの自慢だった。
「怒ると怖いのが、玉に瑕だけど、っと」
生まれた時から慣れ親しんだ山は、庭も同然だった。姉が薬草を集めている山の西側に、ランスは意気揚々と足を運ぶ。
綺麗な歌声を辿れば、簡単に姉を見つけることができた。しかしそこで、ランスはすぐに異変に気が付く。
(誰だ、あいつ)
姉は、若い男と一緒にいた。近隣の街や村の男ではない。茶色の髪に灰緑の目、着物こそありきたりだが、品の良い佇まいは貴族にも見えた。なにより、人とは思えないほどに美しい。
その男と姉は二人で山を歩き、薬草を採り、そして目が合えば微笑み合った。それだけだというのに、ランスはカーッと顔が赤くなる。
(なんだ、あの男、姉さんと仲良さそうに)
ムッと口をへの字に曲げたはずみで、低木にかけていた手にも力が籠もってしまった。
パキッと音を立て、細い枝が折れる。
灰緑色の瞳と目が合った。
「……どうなさいました、千草さま?」
「小さいのが、逃げた」
一目散に逃げ去る小さな背を見つめ、男はポツリと呟いた。
あの男のことを両親に告げ口する気にもなれず、さりとて盗み見た罪悪感から姉を問い質すこともできず、ランスは悶々とした日々を送っていた。
「ランス、難しい顔をしてどうしたの?」
庭で、父と薬草の仕分け中だったのも忘れてウンウン唸っていたら、洗濯物を干す母に心配されてしまった。
「……えっと、姉さんは街で色々声をかけられるから、なんとかできないかなって」
あながちデマカセでもない言い訳をする。
「あらあら」
母はおおらかに苦笑するが、父は過激だった。
「ランス、遠慮するな! うちのファイエットに近付く奴は鉄拳制裁だ!」
「そんな必要ありませんよ。ファイエット、恋人でもできたんじゃないかしら」
父とランスが、衝撃のあまり薬草を落としてしまった。
「こい、こいびと……うちの可愛いファイエットに、恋人だとぉぉぉ!?」
呻いたきり、父はわなわなと震えている。
「あの子、最近綺麗になったでしょう? あれは、恋をしている証拠」
打ちひしがれる父とは対照的に、母はふふ、と楽しそうに笑う。
「母さんは、相手の人を知ってるの?」
「さあ? でも、いつか紹介してくれるわよ」
楽天的な母に、そんなものか、とランスはホッとする。
「もしそいつが悪い奴だったら、おれがやっつけてやるよ! なんてったって、おれは魔法使いになるんだからさ!」
「ランス〜、なんて良い子なんだ〜」
父がランスに抱きつき、髭の残った頬でジョリジョリと頬ずりする。
「父さん! やめて! 痛い痛い!」
日常の何気ない幸せなひとコマ。ランスはこの幸せは、永遠に続くと思っていた。
「ランスー、シーツを干すの手伝ってー」
「はーい」
母に駆け寄るランスの背後で、ガサガサと草を掻き分ける音がした。
「あ、姉さ――」
「逃げろぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!」
姉が帰ってきたと思い、振り返ったランスに、耳をつんざく絶叫が重なる。
山奥から迷い出てきたのか、人間の匂いに釣られてきたか。
現れたのは真っ黒く染まった、クマに似た魔獣だった。
父は、手近にあった薪割り用の斧を手に取る。
「父さん……!」
ランスを抱えるように抱きしめ、母がすぐさま家の裏口に走った。
父が斧を振るより速く、魔獣がその手を振りかざす。
見開かれたランスの青灰色の瞳に、鮮血を噴き出し、倒れる父の姿が映った。
人間は、こんなにも簡単に死ぬのか――。
魔獣の巨体が、今度は、扉に手を伸ばそうとした母に迫る。
殺される――そう思ったランスを、母は全身で抱きすくめた。
「お母さん! ランス!!」
激しい衝撃が、ランスを襲う。
戻ってきた姉の悲鳴を最後に、ランスの意識は途切れた。
うっすらと目を開けると、ランスを守るように母が覆い被さっていた。
「……さ、…」
母を呼ぼうとしても、声が出ない。
ずっしりと重い母の体の下で、ランスはゆっくりと首を動かした。
魔獣はいない。かわりに、人影があった。
(魔法使い……?)
その人が、魔獣を退治してくれたのか。だが、その男は黒のローブを着ていなかった。
(綺麗な緑色の髪……)
見たこともない緑色の髪が、目を奪う。次いで、信じられないほど整った顔に、美しい灰緑色の瞳が目に入った。
(あの男は……)
姉の、恋人だ。
髪の色は違うが、あれほどの美貌の男が他にいるわけがなかった。
そして男は、頭から血を流して動かない姉を腕に抱いている。
「ね……さ、……」
呼びたいのに、掠れて声が出ない。
駆けつけたいのに、体は動かない。
声も出せず、身動きも取れず、ランスが縋るように見つめる先で、男は姉の遺体を抱いたまま背を向ける。
そして、まるでカーテンをくぐるように、空間の亀裂に消えていったのである。
「………っ」
それが、どういことか。
なにを、意味するか。
「うっ、うわあああああああああっっっ!!!!!」
理解した瞬間、ランスは喉が千切れんばかりに絶叫した。
(あいつ……あいつは……っ!!)
魔者だ――。
あの魔者は人間に化けて姉に近づき、姉を騙して、父を、母を、そして姉を殺した。
ランスの目の前で、家族を魔獣に殺させたのだ。
(許さない! 許さない! 絶対に許すものか!!)
ザリッ、と母の血に濡れた土を握りしめる。
父の叫び声。真っ赤な鮮血。むせ返るほどの鉄の匂い。
命を失った、母の体の重み。
忘れない。
絶対に忘れるものか。
「殺してやる……魔族はみんな、殺してやる……!!」
母の亡骸の下で、ランスは復讐を誓った。
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❖ お知らせ ❖
読んでくださり、ありがとうこざいます!
3ー1 メソメソ王子 は、7/31(水)に投稿を予定しています。
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