8 司の責務
「ぷっ……はあ! 緊張したぁ!」
マスターと王子の乗った馬車を見送り、張り詰めていた糸が途切れたモニクは、ぐったりと背中を丸める。
「緊張、していましたか?」
その台詞にいささか疑問を感じたジルだったが、モニクは勢いよく首を振った。
「してた! してた! してたよぉ! あんな最高の研究素材……じゃなくて、魔力の塊……じゃなくて」
モニクは終始マスターから目を離さず、穴が開きそうなほど観察していたのだ。その明晰な頭脳にどんな情報が入力されたのか、知るのも怖い。
「本音がダダ漏れじゃわい」
ガエルが呆れた。
「しかし、ワシも肩が凝ったわ」
太い首を回せば、ゴキゴキと音がする。
さすがの土司も、王子の相手は肩に力が入ったようだった。
「にしても、さすがはマスターだな。あの殿下と、ああも平然と話せるとは」
王族というだけでも緊張するのに、あの美貌を前にしたら、普通は尻込みするか見惚れるものだ。だがセツは、至って自然に頭を撫でるわ、お前呼ばわりするわ……思い出しても寿命が縮む。
「五年前にも会ってるんだよね? 王子様がまだユーゴにいた時に」
二人の親しげな様子をモニクは思い返した。ロワメールが王子に戻る前、ただの少年だった頃に、セツはロワメールのもとを訪れ、しばしの時を過ごしている。
二人がどんな時間を共にしたかは司の知るところではないが、二人を見ていればおのずと想像がついた。
「マスターが帰ってこないって、アナイスが大騒ぎしてた時だな」
ガエルが顎をさすりながら、当時を思い出す。
「大騒ぎなんてしていません。自分の用事で起きるなんて、彼の長い歴史の中で初めてで、しかも待てど暮らせど帰ってこない。半年、ギルドを留守にしていたのよ。心配するのは当然でしょう」
まだ司になっていなかったジルとモニクが、興味深く聞いていた。
「半年、殿下と一緒にいた、ということか。だから殿下も、あれほどマスターを慕っておられるんだな」
ジルは二人の関係に合点がいく。六ヶ月、短いようで長い期間である。
そして、マスターにとっての半年は、とても貴重な時間であった。
氷室での冷凍睡眠を繰り返し、長き時を生きるマスターといえど、生きられる時間は己が寿命が尽きるまで。寿命が八十歳ならば、冷凍睡眠の間に起きていられる時間は八十年だけだ。
そして未だ次代がいない以上、セツに死ぬことは許されなかった。次代がいつ生まれるかわからないからこそ、セツの寿命は一日とて無駄にはできないのだ。
先代が亡くなってすら、その死を悼む間もなく冷凍睡眠に入ったセツ。
自分のためには一切時間を使ってこなかったセツが、貴重な時間を半年も、ロワメールには割いたのだ。
「私たちが思っている以上に、お二人の絆は強いのかもしれないな。マスターも、殿下を大切に思っているんだろう」
ジルも二人の様子を思い出す。
セツとロワメールの関係は、まるで家族のようだった。
仲の良い親子のような様子は、見ていて心温まるものだ。
しかし、微笑ましい、そう感じたはずなのに、ジルの表情は曇っている。ジルだけではなく他の三人の司も、口調とは裏腹に顔色は優れなかった。
人ひとりの命を奪う決断をしたのだ。落ちこむのも無理はなかった。
けれど、ジルもアナイスもモニクもガエルも、どれほど心が沈もうと、それは敢えて口にしなかった。
上に立つ者は、決断と責任を担う。辛くとも、それを受け入れねばならなかった。
それが、司の責務だからだ。
「よし! いつまでもウジウジしない! 時は金成! 切り替え切り替え!」
パン! と頬を打つ音が響いたかと思えば、モニクが気合を入れている。
「こーなったら、なにか新しい研究テーマに挑もうかな。なににしよっかなー?」
前向きで現実主義な研究者は、時間を無駄にすることを厭った。
んー、と考え込み、悪戯っぽい顔でジルを見上げる。
「精神的ダメージを受けてる時の魔力の変化について、ジルちゃんからデータ採らせてもらおうかな?」
「いや、それは……」
とんでもない脅し文句に、凛々しいジルの顔が強張った。
しかし、それがジルを気遣ってだとわかるからこそ、風司を邪険にはできない。
それが失敗だった。
「魔法使いの精神状態による魔力の変化……いいな、このテーマ。これまで魔力と肉体についての論文はいくつかあったけど、精神との関係はいまだ手付かず……」
単なる思いつきが意外に気に入ったようで、ブツブツと呟く天才研究者の目が危険な色を帯び始める。
「モ、モニク殿……?」
「ジルちゃん、ちょっと協力してくれない?」
「いや、私は仕事が立て込んでいるので」
断ったつもりだったが、本気になってしまった風司は聞く耳を持っていなかった。
「ちょっとだけ! ね? 痛いことしないから!」
モニクにグイグイと迫られ、ジルが思わず後退る。
「そういうことでしたら兄を差し出しますので。アレを煮るなり焼くなり好きにしてください」
「いいの!?」
進退窮まって人身御供を差し出せば、モニクがヒャッホーイと諸手を挙げて喜んだ。
兄にはとんだとばっちりだが、背に腹は代えられない。
「やっぱり、レオールの血筋は興味深いよね!」
ガエルが苦笑いを浮かべた。
「まあ、ジスランの奴も、煮るなり焼くなりされたら、少しは真っ当になるだろうよ」
ジルの双子の兄は、本部きっての問題児である。
「まったくあいつは、能力は申し分ねぇのにダラダラしやがって。ジルと瓜二つなのに、性格は正反対ときてやがる。たまには弟子にガツンと言ってやれ、アナイス。ゆくゆくは、司を継がせたいんだろう?」
「そうね……」
どこか上の空のアナイスに、ガエルが目を眇めた。
「どうした、マスターが心配か? あの調子なら、殿下とも上手くやるだろう」
貴族嫌いのセツが王子の同行を拒むのではないかと不安だったが、いらぬ心配に終わり、アナイスが気がかりなのはセツではない。
ロワメールをギルドに迎え入れた時から感じた違和感を、炎司は未だ拭えずにいたのだ。
王子は微笑みを浮かべながら、出迎えた司をはじめ、職員たちとも穏やかに挨拶を交わしていた。
上品な振る舞いの美しい王子に、ギルドの若い職員たちは、男女問わず顔を真っ赤にしたものだ。
セツには砕けた口調だったが、司にも非の打ち所ない、完璧な対応をしてくれた。
常に微笑みを浮かべ、優しく穏やかに話す王子。
けれどアナイスは、色違いの瞳の奥に刃のように鋭く、冷たいなにかを感じ取っていたのである。
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