第40話 正茂と陽子3

 新幹線の車窓から富士が見えだした時に兼見が昨日は正茂から伺った話は、まもなく琵琶湖が見え出す頃には二人の関係はほぼ煮詰まってきた。米原に差し掛かり出したあたりで遠く竹生島が見えた。その先に葛籠尾崎の先端が微かに見えると直ぐに竹生島と重なり見えなくなった。

「此処からはあの岬は一瞬しか見えないのね」

「それだけ複雑に入り組んでるってことさ。今までのあの二人の立場のように……」

「そうね、でもおかしいわね。二年間も陽子さんが偽名を使っていたわけじゃないのに四十年前の事件の関係と謂うより当人の妹の娘さんだと知らないなんて……」

「でもさ、正茂さんだってつい此の前まで伯父さんの存在といとこである深紗子さんを知らなかった、ってことは、聡叔父さんは正茂さんに何も言ってないんだ。だから事件を告白されても、なんのこと?って聞き返されて陽子さんは愕然とした。それに付いて余談があるんだ」

 陽子さんは大学卒業を前にして何とか引き留めたが、正茂が大学院へ行っても二年の修士課程が終了すればそれまでだ。永久的に此処に居てもらわなくては困る。そこで陽子さんは正茂が院に進んで半年目にある決断をした。ハッキリ言わなくてもそれとなく匂わす。

「それって何をしたの?」

 深紗子は興味深く聞いて来た。

「陽子さんから、お母さんの名前の説明をしてなんとも言われなかった。けれど多分勘づいているが、別れたくないから知らんぷりされたと思ったようだ」

 そこで正茂が院生になって半年目に、何処まで陽子と本気で付き合えるか確認したかった。

 ーー実はあなたに言っておきたいことがあるの。あたしのお母さんの名前だけど。

 ーー輝紅てるこさん、でしょう。それがどうかしたの。

 ーー変わった名前の付けた方で解るでしょう。それでも気にならないの。

 此の変わった名前を見れば、あの事件の関係者なら解る。まして当事者なら一目瞭然だ。陽子にはそれでもいいのか確かめたかった。これでサッパリ離れてしまう人なのか、それとももっと寄り添ってくれる人なのか、賭けに出た、つもりだった。

 ーー別に、僕の苗字だって薪美志で変わった名前だ。だから気にしてないよ。

 これは昨日正茂から聞いたやりとりだが、此の最後の気にしてないよ、の意味を此の時の二人は取り違えていた。とあのお台場での告白を聞いて解った。此の誤解を別な暗黙の了解にして育てた愛だと云っても過言じゃない。此処があのシェークスピアの取り違いの悲劇にはならなかった。

「あなたに似て、正茂さんもちょっと鈍くさくて勘の鈍いロメオだったのね」

 正茂は何も知らないだけなのにと兼見は膨れっ面をした。

「そういうジュリエットはもっとおひとやかな人なんですけれどね」

 と深紗子を牽制した。

「ひと言文句の多い人ね。嫌われるわよ」

「もうその台詞せりふも色褪せてきましたね」

 まあ、調子に乗る人ねと呆れられた。 

 出会った頃も霧島陽子で、お母さんの名前は単に霧島輝子と説明した。大学を卒業しても帰らずに院に行きだしたあたりで、正茂の意志を確認するためにお母さんの名前は輝子でなく輝紅てるこだと説明した。正茂は世間並みに変わった名の付け方ぐらいの反応だ。陽子にすれば、あたしの正体を知った上で此の人は慕ってくれていると思った。つまり正茂自身も薪美志と謂う変わった苗字に慣れたせいか、輝紅てること説明されても普通の対応だった。でも陽子の対応は違った。此の変わった名前の付け方から、直ぐにあの葛籠尾崎の件で亡くなった姉の妹だと受け取ったと思った。実際陽子もそのつもりで告白したが、違った。

 此の誤解によって陽子さんは、もっと強固に真剣に付き合わないと、少しでも偽りの愛だと悟られないように、誠心誠意接しないと母の願望は達しない、と以後は無我夢中だった。そうとは知らずに正茂は修士課程の終了間際に、お母さんの傍をどうしても離れたくないのならお母さんと一緒に暮らす決心をして、あのお台場海浜公園に臨んだ。が、そこで陽子は正茂があの事件のことは何も知らないと初めて知った。結果的には「気にしてないよ」を取り違えたのが功を奏して、陽子は偽りのない愛を無意識のうちに貫けた。

「二人とも誤解したまま受け取り、院生を終了間際にその事実を知り、これに正茂は新たにどう応えるべきか迷っているんだ」

 実際、正茂は実家に電話して陽子の言っている事件の事実確認をして、初めて四十年前の事件との関わりを認識できた。問題を更にややこしくしたのは深紗子が父の叔父に当たる聡さんを知った時期と、二人がお台場海浜公園で告白した時期が前後した為だ。輝紅てるこさんは姉の死を知りながらも、そのまま四十年も何の音沙汰もなければ、茂宗の人格を疑い、それがエスカレートして、あの神社の後継者問題に関わった。しかし最近やっと茂宗の人柄が昔のままだと知り、娘に立てた計画を白紙撤回した。これで一番翻弄されたのは正茂と陽子の二人だ。今まで百パーセント神社を継がないと宣言していても、これで五十パーセントまで後退して、陽子次第では再びあの神社を継ぐ確率が高くなった。せっかく取った資格も無駄にならないし、後を継げば生活も安定する。願ったり叶ったりの二人になれるが……。

「でも此の二人のネックになっていた輝紅てるこさんから、二人の好きにすれば良いとお墨付きをもらったのだから、もう二人に横たわる愛以外には何も拘る必要がなくなり、直ぐに答えは出るだろう」

「それは言えてるわね、これで二人は何の気兼ねも要らないもの」

 新幹線は正茂と陽子を祝福するように京都駅のホームに滑り込んだ。


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