第39話 正茂と陽子2

 正茂の話だと夏休みが明けると、寮から大学へ行く道で彼女にばったり出会った。もう会えぬ人だと半ば諦めていただけに、この時は天が導いてくれた奇跡だと思った。そこは大学へ通う人しか普段は通らない人通りの少ない道で、最初は別の大学の女学生だと思った。それがある一定の距離に達してどちらも同時に声を上げた。

「陽子さん」

「薪美志さん」

 彼女は白のブラウスに紺のスカートだから遠眼には高校生に見えたが、近付くとブラウスには刺繍が大きく鮮やかに見えて大学生にも見えた。千載一遇のチャンス到来。こうなると大学どころじゃない。訊けば彼女も特にこの日は目的もなく直ぐに近くの喫茶店に誘うと、彼女もすんなりと受け容れて益々気持ちは高陽して、此の時は待ち伏せしていたなんて考えられなかった。

 喫茶店では暫く楡山の噂をして、此処でも彼は場を持たせてくれた。 

 ーー海の家のバイトじゃあ八月一杯でしょう。あれからどうしてたんです。

 ーー何かジプシーみたいな言い方ね。と笑われた。

 こうして話が弾むと、お互い休みの日は暇だと解り、彼女にもう直ぐ卒業なのにと、行きたいところを聞かれた。東京ディズニーランドと答えるとエッ!とじっくり観られた。

 男が一人で行くには敷居が高く、楡山を誘っても「遊園地へ男だけで行くか! 第一大の男が二人で行けば惨めでみっともない」と一蹴された。これには同情されて東京ディズニーランドに決まった。前から行きたかった夢を彼女が実現して此の時は陽子が天使に見えた。

「見事に陽子さんの術中にはまったのね」

「その前の海水浴場の最終日に行った浜辺の散歩が相当効いたようだ」

 これには深紗子も頷いた。

 彼女との最初のデートが静寂な場所ではムード処か、気疲れしてお互いの気心を探り合うにはディズニーランドは良かった。目白押しの珍しいアトラクションや乗り物で、次々と突発的な体験すれば、気兼ねや気疲れする暇がない処か、お互いのちょっとした癖や細かい個性も見えて、新たな彼女が発見できる楽みも増えた。

 これを切っ掛けにして毎回デートすると、半年なんてあっと言う間に過ぎた。別れが迫ると彼女にしんみりされて心が凄く痛んだ。此の始めて味わった心の痛み、これが恋だと感じると。もう卒業したくない思いがこみ上げてくる。このままもう少し居たいと実家には此の道を究めたいと大学院まで引き延ばした。そして大学院に行き始めて半年経った頃に真実を知らされた。愛を伴うこの事実に、此の時はショックより、思い詰めた彼女の瞳に心が洗われた。そこに正茂に近付いた事実が存在しても、真実は別だと知された。これが愛だと知った。海の家で恋をして、此処で愛を知った。

 それに依ると、この真意はどこにあるのか。先ず陽子は亡くなった姉について聞かされていたが、新興宗教から逃れる為に、それどころではなかった。やっと落ち着くと、いずれ早かれ聡の息子は東京の國學院大学に来る。それから行動を起こしても遅くない、いやそれまでは静観するしかない。あくまでも自然体で臨まなければ成功は覚束ない。それで二年付き会って正茂から一緒になってくれと望まれた。やっと待ちに待った瞬間が訪れた。此処で詰めを間違えれば此の二年が無駄になる。と考えるより好きになってしまえば関係ない。そんな邪心を棄てると、気持ちがす〜と晴れてきた。

「此の時に彼女は打算を抱かず好きになってしまえば、どう転ぼうと後悔して禍根を遺さないためにも、洗いざらい話して彼の審判に従う決心をしたそうだ」

「そうなの、その告白時の話をもう少し聞かせてよ」

 深紗子にせがまれて忠実に再現することにした。

 大学院の終了が迫り彼女の誠心誠意な心に惹かれて告白したのに対して、陽子もそれに身構えて対応する。場所は東京湾にあるお台場海浜公園だ。東京湾に浮かぶレインボーブリッヂが眼前に望め、前面に広がるピーチは、二人が初めて泳いだ房総の浜辺を連想させる。二人が歩く浜辺に人影は疎らだが、穏やかな春の陽差しの中で正茂は陽子に、一緒になってくれと実家に誘った。好きだけれど此処を離れられないと正茂を逆に引き留めた。

 なんでや、と正茂は気色ばんだ。よくよく訊ねると此処で一緒に暮らしたいのだ。矢張りお母さんを一人残して離れたくない、親思いの気持ちから出た。

 それならお母さんと一緒に来れば良い。これには慌てて反対した。陽子が色々と理屈を並べて抵抗すると、仕舞いには余り関係なさそうな所まで話が飛んでしまう。流石の正茂も首を傾げて愛を確かめた。これには強くあたしを信じてと涙混じりに懇願された。彼女が涙を見せたのはこれが初めてだけに、思わず戸惑って「なんでやッ」と声をたわいもなく張り上げた。

 ーーじつは湖北はお母さんの生まれたところなの。

エッ! これにはもう驚く処か、なんで今、そんなん言うんやと納得しない。

 ーーお母さんの旧姓は島崎っていうの。

 ーーそれがどうかしたん。

 此の人、なんにも知らはらへん。どうするか陽子は迷った。此の、今までなかった沈黙が愛への疑惑になった。陽子は何度も否定した揚げ句に、とうとう母親の計画を話した。一瞬強張いっしゅんこわばったった正茂の顔に「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝った。

「そやったら俺に近づいたんは演技か」

「そうや、でも真剣やった。真剣やったから心が通じたんや。それでそのままれたんや。だから惚れたんは真実や。出会いこそ演技やったけど、惚れたんは真実や」

 彼女の涙混じりの切実な訴えに正茂はほだされた。



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