第38話 正茂と陽子

 深紗子と兼見は正茂の部屋を辞して帰りの新幹線に乗った。部屋を辞して、あのところどころ錆びが浮いた階段を下りるまでに深紗子のくだした批評は、正茂は陽子に丸め込められるかも知れないだった。しかし深紗子が話した湖北の風景には強い関心を寄せたが、それで陽子が正茂の実家を訪ねても、神社を継がないのならあの景色を見せても意味がない。

 先ほど会ったばかりの陽子さんを思い描くうちに、流れる車窓に富士が見えても結論は出ない。

「兼見義博さん」

 ウッ、珍しくフルネームでしかも甘い声で呼ばれると背筋が寒くなる。

「急に改まって何ですか?」

{陽子さんは正茂の強固な愛を確信して、彼に近付いた訳を言ったけれど、本当に彼に動揺はなかったの? 昨日きのうは正茂から陽子さんについて他にどんな話を聞いたの?」

「彼は二人の関係については最初硬かった、それでほぐすのに苦労したよ」

「ならその苦労話を聴かせてよ」

「明日帰れば叔父の聡さん、つまりあなたのお父さんに報告するが、陽子さんとの関係が曖昧ではいけない。そこで陽子さんと築いた信頼関係が深ければ叔父さんも諦めるかも知れない。少なくとも踏ん切りが付く様に聞かせて欲しい、と頼むと暫く考え込んで『本当におやじは諦めてくれるんですか』と言われた。それは陽子さんとの関係が中途半端でない確証、私が叔父さんに納得させるだけの情報が欲しいんですと懇願した」

「それで正茂さんは、さっきの抽象的な説明でなくもっと具体的な話をしてくれたの」

 もちろんと兼見は自信たっぷりに話し始めた。

 今日と変わらないテーブルの前で、正茂は口では実家に帰らないと言い切っていた。此処まで叔父さんは後を継いでもらう為に、大学院まで先延ばした揚げ句に、此の仕打ちは還暦を前にして相当にこたえる。とジワリジワリ心情に訴えると「そうだなあ」と気落ちしたのか、急に大学最期の夏休みから話し出した。これが偶然でなかったが、親に言い訳も出来るらしく作ろって此処から話してくれた。

 楡山と一緒に毎年行っている海の家に今年も投宿した。此の宿は懇意にしている先生の知人の民宿で、最初に勧められてから毎年欠かさず利用していた。輝紅てるこさんは正茂の入学当初から彼の行動に目を光らせていた。それを大学卒業の四回生に標準を合わせて動き出して、知るのにそんなに手間が掛からなかった。そこで陽子さんを此の民宿にバイトで行かせた。此処で彼女はまるで専属みたいにつきっきりで世話をした。

 先ずは民宿に二人が着くと、その日の食堂のテーブルに早速やって来て夕食後そこでも気軽に話して来る。一日中浜辺に居る正茂と楡山には、毎年欠かさず利用して知人の紹介でもある二人には、民宿の主人に頼まれて彼女は昼間の休み時間を利用しておにぎりと付け合わせを持たせた。休憩時間だから渡すだけで良いが、彼女は直ぐに帰らずに、そのまま浜辺で二人と一緒になって休憩時間いっぱい過ごしていた。更に二日目からは夕方以降は勤務時間が明けると、食堂ではお茶を飲んだりして、部屋に戻ればトランプやゲームまでして、消灯時間が来ると、お休みと云って陽子は自分の部屋に帰る。これには楡山と二人で俺に気があるんだ、いや俺に決まってるだろう、といつも言い合いをした。四日目の昼食の差し入れ時、陽子は上着の下は水着で現れて、小一時間ほど正茂と陽子は二人だけで泳いだ。当然その晩は彼女は正茂に気が合うのだろうとなって、楡山は気を利かして部屋に残り、二人は夜の浜辺を散策して帰って来た。此の時の二人の様子を問い詰めても正茂は話してくれなかった。

「それはきっと良い想い出が詰まっているのね」

 毎年正茂は楡山と二人だけの海水浴だったが、今年の四泊五日の民宿は、大学生活三年半目にして、始めて知り会えた彼女のお陰で、大学生活最後の素敵な想い出が作れた。

「陽子さんはお母さんに言われたが、でもかなり積極的だったのね」

「それがどうもそうじゃないらしいんだ」

 昼間の差し入れは民宿の主人に頼まれた。最初は楡山が「休み時間は自室に一人で居るんでしたら此処でだべって行きませんか」と誘われて休憩時間を彼らと一緒に過ごした。夜も夕食を済ますと矢張り楡山が「浜辺で花火をしませんか」と誘って、それから正茂も陽子さんと積極的に喋る様になった。

「じゃあ楡山さんのお陰なの」

「そう、正茂も陽子さんも、異性に対する免疫がまだ不十分で、そこへ行くと楡山はそうじゃない。彼は神職になる気はなくて、大学生活を謳歌するために来て、もう何人かの話し相手の彼女は居たが、彼には放浪癖がありそれ以上は付き合う女性はいなかったと云ってる」

「じゃあ二人は初対面でビクビクすることもなく、楡山さんお陰で最初から打ち解けられたんだ」

「まあね、正茂は彼女を気に入り、彼女の方は、母からの要望で二人が近付く要素は十分あったが、なに分にも正茂の方が惹かれて、陽子も引かれるが、その目的が違っていたから此の時はもうひとつすれ違いに終わった。夏休みが終わり陽子もバイトが空けると、彼女は今一度気を引き締めて彼に接近したと、後で彼女から聞かされたそうだ」 

「母の要望と恋心に気持ちが揺れたってことは、陽子さんは正茂さんに対して相当に悩んだ。それでも苦労して育ててくれたお母さんの思いに応たい。此のあたりはちょっと微妙ね」

 まあ、そのその微妙な陽子さんの思いを、正茂はある時期まで知らなかった。

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