第31話 陽子2

 正茂の今後の動向は、その陽子次第だと判った。このままでは帰れない。とにかく陽子に会わないと、実家の叔父さんにも何も報告できない。彼女に会って叔父さんがなるほどと思える相手かどうか、とにかく見極めないと叔父さんに諦めるようには説得はできない。

「俺以外の者が神社を継ぐのか」

「継げる継げないでなく、これで千年もあの集落に脈々と受け継いできた神職としての薪美志家は終わるだけだ……」

 と正茂の問いに答えた。今一度その重みをどのように受け止めているのかで、今後の課題が変わってくる。その意義を延々と虚しく伝えたが、矢張り物足りなかった。それは彼が此の二年間にわたって、片時も思い悩んだ彼女への思いがまさった。二年の葛藤を一日掛けても覆せるほどの愛をあの男に施せない以上は、最後の望みは陽子と謂う女だが、正茂には今夜一泊するビジネスホテルを伝えた。連絡先を言ってくれれば、こちらから訪ねると言ったが、会う会わないは彼女が決めると言われて、虚しく正茂の部屋を後にした。チェックインにはまだ時間があり、話の種にスカイツリーでも行ってみた。

 同じように八百年続いた冷泉家には、国宝級の書物がある。あの神社にはそんな歴史を引っかき回すものは何もない。ただ閉鎖された小さな集落のエゴであり、集落の守り神としての薪美志神社は、そこに住む人達の自己満足に過ぎない。と考えるとハッとして、四十年前の社長の思いに行き着いてしまった。これを長いメールにして深紗子に送った。長い支離滅裂な文章なので、明日会ってゆっくり聞くと返信してきた。ただ最後に陽子と謂う女に何としても会うように書いてある。

「そんな無茶な。正茂からは東京に居るのさえ言わないのに打つ手はない」

 スカイツリーの展望回廊、四百五十メートルから眼下に一千万人が収まる都心を眺めた。陽子と謂う女は、此処が離れられないって言うが、此処へ上がるまで見ていた地上は、ジャングルのようににょきにょきと背の高いビル、タワーマンションって言うやつばかりが伸びていた。こうして一番高い所に上がると、なんか人間がちっぽけに見える。いや、世知辛いものに見えた。

 スカイツリーを降りかけて、陽子があなたに会いたいと正茂から、取り次ぎの電話が入った。

「会いたいと言われても、東京には中学の修学旅行以外は仕事で、しかも用件が済めば日帰りで、場所を指定されても殆ど知らない。もし来るのなら今スカイツリーの展望回廊から展望台に降りたところだ」

 と言うと、正茂から折り返し連絡するまで、そこに留まるように言われた。兼見は引き返して展望デッキ三百五十メートルに立ち尽くした。

 最初は四年辛抱すれば近江へ帰るつもりで、正茂は此の都会で頑張った。だが土壇場で好きな女に巡り会った。神職を投げ打っても構わない。そうなれば簡単にすべてを捨ててしまえるのか。それだけ母に一途な相手の女の一途さが、そのまま正茂に乗り移り、彼もその女に一途になった。

 一途と謂う言葉は深紗子には通じないだろう。彼女はなにかに於いてコロコロと目先を変える。不安でないのは、今のところ大きく蛇行しないし、崩れることはない。一方で一途な人間はその土台がもろくなり、他に抜け道を知らなければ、固執した土台もろとも一気に崩れる。常に迷っている人は身を躱す方法を知っている。その女が何処まで一途なのか、見極められれば先が見えてくるだろう。

 エレベーターのすぐ前の展望台デッキに立って居ると伝えてある。電話が鳴った。展望台デッキに居る兼見に、五階の出口フロアで、彼女は一人で待っていると報せてきた。

 エッ! 正茂はどうした。ちょっと待ってくれ、僕はまだあなたを知らないのに、どうして見分けられるんだ。出口だから立ち止まっている人はあたしだけだから、直ぐに判ると言われた。なるほど出口ならみんな降りればサッサと立ち去るわなあ。誰も用もないのに居る人はいないならそうなるか。

 エレベーターが到着するとみんな一斉に出た。兼見はあとから一人だけわざと出遅れた。エレベーターを出た客は、そのまま我先にと行ってしまった。その出口に髪の長いスラッとした背格好で、紺のワンピースに薄紫のジャケットを羽織り、ウエストを締めて、キリリと引き締まっている一人の女がポツンと立っていた。周りを見てもその人以外に誰もいない。霧島陽子さんですか、と声を掛けると頷いて微笑んでくれた。

「兼見義博です」

 此処は観光客が多いから場所を変えましょうと彼女の先導で一階から外へ出た。春の陽射しが燦々さんさんと降り注ぐ中で、彼一人だけがキョロキョロする姿に、東京にはまだ馴染めていないと言われてしまった。それから彼女は正茂の人柄をとても気に入ってると話してくれた。此の人混みの中では、会話もままならぬ。彼女の後をついてゆくのが精一杯だ。幾つかの路地に入り、都心とは思えない落ち着いた通りまで先導されて古風な喫茶店に入った。

「東京にもこんな店があるんですか」

 彼女の服装もそんな感じなので、 東京に着いて始めて見たノスタルジックな店に、席に着くなり訊ねてしまった。

「その服といい、それは正茂の趣味ですか」

「そうね、これは母の趣味かしら」

 そこで注文を訊きに来た女店員に、ブレンド珈琲をふたつ注文した。

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