第24話 薪美志茂宗3

 四十年前の三月三十一日、この日の朝、いよいよこの日は家族には東京に行き、大学の寮に入って明後日あさっての入学式に備えると告げて家を出た。その前日の夜に弟の聡を部屋に呼んで長いこと話した。聡を説得するのにひと晩かかった。まず神官がこの集落にとって大切な意義を伝え、それより尊いのが愛だと鼓舞した。だがお前はまだ愛の本質を知らないから悩むことは無いが、俺は順序が逆になった。神社を継ぐという使命よりも重い愛を知ってしまった。幸い恋人のいない聡にはすんなり受け容れられた。それで俺のように順序を間違えて悩む事の無い聡は納得した。いや、断る理由を阻害するものがまだ見つからないだけだ。

 これで集落に於ける守り神としての重要性を頭で知っていても、肌で感じたことの無い聡に浸透させた。それにより更に鈍感な愛について、延々とその尊さ、重さ、生きる糧の精神性を懇々と説いた。だから神社を継ぐよりも愛は尊いと言えば納得したが耀紅ようこは逆だ。彼女は愛の重さ尊さを十分に知った上で、集落の守り神として薪美志神社を身近には感じないが、千年以上守り神として続いた重さを悟り悲劇は起こった。愛と薪美志神社の認識の違いで、聡には俺の肩代わりさせても、耀紅には逆効果になってしまった。

 妹の輝紅てるこは愛の重さは姉を見て感じる一方で、神社を継ぐという行為には、聡以上に無感動だった。あんな神社なんて誰が継いでも同じなのに、それと引き換えに輝紅てるこが心を痛めたのは、茂宗の将来を奪った集落の守り神としての薪美志神社に拘った姉の愚かさが身に染みついた。

 そして翌朝には納得してくれたはずの耀紅ようこと会った。暫くの別れにえる想い出を作る為に、今日一日を充実させたいと最後のドライブをした。聡も自動二輪の免許を取ったばかりで、このホンダのSL百七十五CCのバイクは弟に譲ることにしてある。最後のツーリングに耀紅を乗せて先ずは葛籠尾崎つづらおざきに行った。ガードレールの柵を前にして二人は明け放たれた朝陽を浴びた。朝陽は湖面にさざ波を点描画のように映し出した。更に奥琵琶湖に突き出た半島と竹生島をも際立てさせている。

「此処から見る景色はいつ見ても飽きないなあ」

「この下があなたの生まれた集落ですもの」 

「だが道路が出来るまではここへ登ってくるのは一苦労だったけれど、今はバイクで十分、歩いても三十分はかからない。楽になったもんだ」

「でもこの下の集落は千年以上も続いているのね」

 耀紅はあんな小さい集落が、良くも悪くもならないで今も代々受け継いできたのに感心した。此の集落に住む人々の誇りのようなものを、文化というか、絶え間ない努力の偉大さというか、それに畏敬の念を抱いても不思議でない。

「あの近くではいくさが多くあったのに、どうして今まで無事にやってこれたのでしょう」

「多分あの地形に有るんじゃないのかなあ。三方を山で囲まれた小さな集落では地理的にも経済的にも価値がなかったのだろう」

 確かに田畑は少なく、若狭に抜けるにも北陸地方に行くにも、どの街道も集落を通っていない。つまり行き止まりの集落では、豪族や大名は目もくれないのだろう。それだけに一族の結束力が強くて今日まで続いている。

「俺も不思議に思っているけれど、それときみを好きになるのは別問題だ」

「それは嬉しいけど、ひょっとしたらそんな考えに振り回されずに来れたから存続できたと思うとちょっと辛いでしょう」

 いつ戻ってくるか解らない人の為に、此処では精一杯笑みを絶やさなかった。それが今では耀紅の愛の断片になった。

 次に行ったのはメタセコイアの並木道だ。此処は耀紅が最初のデートに是非見せたいと連れて行ってくれた場所だ。北近江にもこんな場所があったなんて、あの浅井さんですら知らなかったのか、教えてくれなかった。いずれ早かれあの集落から離れる人には、そこまで気が回らなかったのかも知れない。此処は耀紅の家から近かった。それでもバイクを走らせた。ほかでもない耀紅の温もりを背中でも良い、触れ合いたいのだ。特に別離わかれが迫れば迫るほど、その温もりはにも代え難い。耀紅もそれを知って、いつもより息がまりそうなぐらい強く抱き締めてくる。このままでは目がくらみそうでハンド操作を誤りそうだ。ひょっとして耀紅はそれを望んでいるのか。このまま何処どこかに激突すれば二人にはもう永久とわの別れはない。だがヘルメット越しには彼女の表情は見えない。両側に居並ぶメタセコイアの並木道に入ると速度を落としたが、彼女の抱き締める力に変化はなかった。折り返して小綺麗な店の前でバイクを停めた。茂宗には実家から新幹線代と当分の滞在費を貰っていた。それでもっと良い物を食べようとしたが、仕事が見つかるまでは心細いでしょう、と此処で二人はナポリタンとスパゲティの軽い昼食を摂る。

「ねえ、早く迎えに来てよ」

 あどけなくフォークに絡ませたスパゲティを、頬と目許一杯に笑みを膨らませて言ってくれる。それに応えたいと「ああ、夕食はもっと豪華にしょう」と言った。

「ダメ! これから幾ら要るか解らないでしょう。それに今晩は幾ら大阪でも野宿は危ないから早めに行って泊まるところを探さないと良くないわよ」

「出来るだけ耀紅とは長く居たいんだけど……」

「それじゃあ尚更早く仕事と住むところを見付けて迎えに来てよ」

 それが一番彼女が望んでいることだとその時は感じた。


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