第20話 耀紅2

 揺れ動いたところで比較する男を知らない深紗子みさこには不安だが、父もその時は今のあたしと同じ気持ちを抱いたのかしら? でもこの想いは父とは別の脳裏に押し込めて聞いた。

「でもこれはそのまま耀紅ようこが生きていればおそらく茂宗さんとの恋に当てはまらないかも知れないわよ」

 これには深紗子も兼見も燃え上がる恋に冷水を浴びせられた。

 寺島が言いたいのは、男も女も五十を過ぎるとやり残したものに焦るそうだ。潰しや直しの効かない歳になると、このままズルズル死を迎える前に、何かを残したいと焦るらしい。別れた夫がその焦りから、あたしに辛く当たったけれど、こうして一人静かに暮らし始めると、その焦りが何もやらなかったあたしをじわじわと追い立てる。これは唯識問題だと一人頭を抱えても失った時は戻らない。今も耀紅が生きていれば彼女もその境地に到達しても不思議でない。あの頃の初心うぶなままでいられるわけがない。時代と文明が変われば生き方と共に考えも変わるのが世の慣わし。そうではないと自分を聖人に飾り立てたとしても、老いさらばえばあの時の耀紅の遺言は、ことごとく否定されるかも知れないから、そのつもりで聞いて欲しい。

「随分勝手な前置きだけど、あれから四十年近く生きると、あの時に云った言葉は死んだ耀紅の特権だと思えば、聞いたあなたたちの考えも変わると思う。そのまま受け取っても良いけれど、けして四十年前に詰め込んだタイムカプセルの言葉は、もうとっくに色褪せて、今は馴染まないほど人の生き方が変わっている」

 八十歳にして亡くなった寺島の父は、彼女が子供の頃は理想に燃えて、颯爽さっそうとしていた。それが離婚してこの家に寺島が戻ったら、もうすっかりぼけけていたのだ。

「玄関であたしを見るなり、死んだ母さんと間違えるんだから。もう処置なしだわ。あっ随分前置きが長いけどこれから言うのは十八の耀紅だけど、あの当時のクラスメイトで今も生きている連中は、男も女も大半が頭が薄くなり、半分の男は禿げているからね。その中で耀紅だけが、セーラー服の初々ういういしく長い髪を棚引かせた姿のままで遺した言葉だから。今のあなたのお父さんとはそこを頭の中で割り引いて聞いて欲しいのよ」

 丁度窓からまだつぼみのままの桜の枝を見て重い口を開けた。

「あたしが初めて茂宗さんの存在を知ったのは耀紅と同じ頃よ」

「その時は何て言われたんですか」

「すごく素敵な人を見付けたって」

 耀紅だけど、もの凄く嬉しそうで普段は物静かな人だけに余計に目立った。

「お父さんのバイクに乗せてもらって楽しかったそうねぇ」

「そうそう、前のめりになるたびに茂宗さんのぬくもりが全身に伝わって、それだけで幸せを感じられたって」

 二人が触れ合う全てが新鮮で、恋も未知の世界なだけに、そこに深い余韻が残る。これより若いと不安が先に来て、これより歳が行くと気だるさがあとに残る。

 この頃になると耀紅も、東京の大学に行くと決めて勉強していた。亀裂が生じたのは三月の中頃にあった合格発表だ。茂宗さんは受かって耀紅は落ちた。此処からの二週間が目まぐるしく二人の気持ちが揺れ動いた。もう少し落ち着いた大人の考えになり切れない十八の二人は、何が何でも一緒に居たい。二人とも落第か合格なら、そう深く考えないで良いものを、茂宗さんが此処に留まるか、耀紅が東京に行くか、二人には厳しい決断を迫られた。

「それを知っているのは寺島さんだけだったんですか」

 兼見が訊ねた。

「そうよ、でもあの頃はまだ世間知らずの年頃だから、オロオロするだけで聞いてあげるのが精一杯だった」

「でも此の時には高校を出て年季の入った社会人の浅井さんとバイクを乗り回していたのは知ってました?」

「少しは、でも向こうは社会人で、休みは日曜ぐらいだけど、二人は高校生で春休み、棲み分けが出来ていたし、茂宗さんは極力、耀紅とは人目を避けていたから相談どころではなかったのよ」

「そうね、お父さん、今でもそんなところがある」

 仕事以外の私生活は、ほとんど率先して語る父ではなかった。

「どうして浅井さんに打ち明けて相談すれば、もっと大人の対応をしたかも知れないのに……」

 野暮な人生の裏表を曲がりなりも少しは体で覚えた浅井なら、もっと楽に乗り越えられたはずだと兼見には歯がゆい。

「東京での学生生活を夢見てここまで来た二人には大きな試練だったのよね、今思えばあの時はなんて狭い視野だったのと笑えるのに……」

 寺島にも兼見の歯がゆさが伝染して、表情にもなにくらい影を落として落胆している。

「それで問題の日ですけれど。あの日は会ってるんですか、二人に」

 深紗子にすれば、聞きたいのは父と耀紅さんとの最後の成り行きが最大の関心事だ。

「その日は耀紅に会ったのは夜遅くに訪ねて来た時で、訊けば、両親には内緒でこっそり抜け出してきたのよ」

「それじゃあ、深夜に耀紅さんが来るまで父の失踪は知らなかったのですか?」

 二人には一番の親友にしては意外だった。

「そう」

「でも翌日、父が東京の大学の寮に入るために此処を出るのは知ってたんですか?」

「それは知っていた。だから余計に驚いたの」

 夜中でも訪ねられるのが親友なのか、どちらにせよ茂宗と別れて此の時一番頼れるのは結希乃しかいなかった。

「それが幽霊みたいに青白い顔して玄関に立っていたから吃驚びっくりしてね」

 結希ちゃん、今はあんたしか頼れる人が居ないのよ、と泣き付かれて玄関ではみっともないからあたしの部屋に入れたの。



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