第9話 薪美志家 3
深紗子と別れて昼からまた職場に復帰した。兼見は市内と郊外の間にある大型店舗のひとつを任されている。彼の目利きで仕入れた品物がいつもその日に完売して、これには社長も一目置いていた。ひょっとして彼は此の一芸だけで店舗を任されているのかも知れない。その噂を聞いた深紗子が近付いた。彼女には過去を何も語らない両親、特に父に対して不満がある。それがつい最近大学を出るまでは抱かなかった不満だ。気分転換に適当にバイトを始めて気付いた。いったい父は何者と。でも今更聞けない。そこで見付けたのが兼見の特技だった。それに彼は、他に言いよる男を振り落として来た深紗子の人生で初めて目にした貴種。今どき泥臭くて純朴だが、その絶滅危惧種に少し心が氷解した。
昔は市電が通っていた一番外側が市内で、その外が郊外。北は北大路道、西は西大路通、東は東山通、南は九条通、この枠内が市内と郊外を区別していた。市電がなくなるとその認識も薄れた。兼見が任されている店舗は、そんな北大路通と東山通が交わる高野の近くに在り、社長の自宅からも一番近い店舗だ。三階が駐車場で二階はテナントミックスで一階が食品スーパーだ。一階裏側の角の一部を倉庫や調理や休憩所にして、その二階が事務所になり、彼はその奥の一画を区切って社員と同じような事務机と応接セットを置いている。
先ずは内に鮮魚を納品に来る業者の中で一番に信頼している卸業社である丸三産業で、主に淡水魚を、特に琵琶湖産を扱っている担当者の水嶋を兼見は事務所に招いた。彼は四十代でかなり多くの魚介類を扱っていた。彼とはこの店を担当してから二年ほどの付き合いだが、店長になってもそれまでと変わらなかったが、社長の婿養子に決まってから腰が低くなってきた。今日も部屋に来るなり、いつもより柔らかい物腰で挨拶されても、一回りも上なので恐縮してしまう。先ず彼をソファーの椅子に招いてから兼見が座った。この着席順にも、店を任された兼見は今も戸惑っている。
「電話では奥琵琶湖に棲息するビワマスの商品価値で伺ったんですが、あれは電話でもお答えしたように流通商品としては無理ですね。第一数も少なく余り取れなくて一部の
と水嶋は電話で言った通り商談にはならないと言われた。しかし琵琶湖の淡水魚の取り引きは内では一手に引き受けている。それで無理に来てもらった。
「他でもないんですが、奥琵琶湖の一番奥に葛籠尾崎の手前に小さな集落がありますね。昔は隠れ里としてひっそりとしていたそうですが、行かれたことは?」
「ないですね」
「そうか」
気落ちした兼見に、水嶋は怪訝に、どうしたのか聞かれた。
「あそこに一軒しかない民宿なんですが、じゃあご存じないか」
「あ〜、あのご主人なら知ってます。取り引きがありますから、泊まり客からの要望で偶にビワマスを注文されると私の方で手配していますので、もちろん数に制限がありますので漁期を終えれば断りますが」
注文があれば漁協に頼んで取れたその場で直接民宿に届けている。
「そんなけっこう厳しい漁獲制限があれば一般の人は無理なんですか」
「いや許可制で申請すれば一定の人に何匹と謂う制限付きで釣れますよ。漁期は十二月から六月一杯です」
「それじゃあ夏から秋は無理なのか」
「そうですね、今のこの時期は結構大物が釣れますが、兼見さんは釣りが趣味とは知らなかったなあ」
「いや、あたしは釣りはやりませんので、ただ、どんな釣り人が居るか知りたいんですが心当たりありませんか?」
今日来てもらった主な理由だが、釣りかビワマスかどちらに絞ればあの民宿の常連客に辿り着けるか思案したが、直接聞くにも水嶋さんは行ったことがないのか。
「あの葛籠尾崎の付け根にある集落の民宿ですが、取り引きがあるのに一度も行ってないんですか」
「取引量が多ければ別ですが、本当に偶にしか、しかも数匹ですから、どうしても車を飛ばすより電話で現地任せになるんですよ」
「そんなに遠い所ではないでしょう」
「まあそうですが、気になるんですか」
「ちょっとね、社長に関する意外な情報が入ったのでね」
「何を調べたいんです」
「社長の親族」
「ハア? それって今度のご結婚に関してですか」
「ちょっと気になることがありまして」
「あるとしても、結婚間際に従業員が会社の社長の素行調査するなんてあべこべじゃあないですか。この逆玉の輿に何か不満なんですか?」
この会社に入社以来、水嶋さんには色々とアドバイスを頂いて、それを自分なりに実行してきた。それだけに此の人への信頼は厚い。歳も一回り離れている
「あの集落の守り神として薪美志神社って謂うのがあるんですが、ご存じですか?」
「いや、それは初耳ですね。それは社長と、どう言う関係なのですか ?」
と実になんとも言えない不思議な顔で訊かれた。
「これが気になるんですが……。そうか水嶋さんはその民宿の人とはそれだけの関係で他に関わりは一切ないんですか」
「ないですが、あのビワマスを取ってる漁業関係者には長年懇意にしている人が居ますから、その人はあの集落の出身者ですから会って見ますか」
それは渡りに船とお願いした。
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