第8話 薪美志家2

 昨日のことで父が何も聞かないはずはない、と彼女は詰め寄った。兼見は彼女の猛攻を躱す如くパスタに挑んでいる。

「どうしたの我武者羅がむしゃらに食べ始めて目の前に人参でもぶら下げられたの」

「まさか、そんなもん、馬じゃああるまいし」

 馬ならもう当に出走してゴールを目指しているのに、まだこうしてバスタと格闘している。

「それはあんたが初めてじゃあないのよ、ものになりそうな人を見付けると店長候補に担ぎ上げるけど、あたしが花婿候補に挙げたのはあなたが初めて、それに報いる活動を期待しているのに」

「よく言うよ、その候補だけど、毎度の事ながら肯定と否定の狭間でノイローゼになりそうなんだけど」

「あなたは並の神経じゃあないから心配要らないわよ」

 彼女に限って逆は有り得ない。要するにそれって世間並みじゃ無いってことか。そんな男に世間並みの行動を求められているとすれば、深紗子は彼を信頼している。これで彼女との絆を深めるならば努力を惜しむな、励め。

「分かった。本当の事を云うよ」

 社長は出勤すると待ちかねたように、俺を社長室という本社事務のフロアーの一画を取り仕切った部屋に呼ばれた。事務員が珍しくお客と間違えてお茶を出して「なーんだ兼見店長だったのか」と云う顔をされて引き揚げた。ドアが閉まるのを待ちきれずに社長には急かされた。よくもまあ、あんな誰もいない夜中の吹雪混じりの中で、俺を降ろすとさっさと娘の確認もしないままに引き揚げて。とにかくそんなものはおくびにも出さずに、愛想良く語り出すと益々乗り出して来た。社長の品位も娘の事になるとお構いなしだ。それまで穏やかに聞いていた社長の態度が急変したのが叔父さんの名前が出た時だ。

「何て訊いたの?」

「社長は、なぜ円城寺が知っていたのかと言われた」

 それは宿泊客から聞かされたのだが、社長はその宿泊客の正体について根掘り葉掘り追求したが、普通の釣り客で漁港から漁船をチャータして、ビワマスを釣りに来たしか判らない。すると社長は余り知られていない魚なのに常連かと問われた。

 あの時はすべての話が民宿の玄関で交わされ、そこまで親しく話す時間がなかった。

「ひょっとして、社長はその宿泊客に心当たりがあるのかもしれない」

 今日の話では、社長は家を飛び出して今までに、あの集落にはあれから一度も帰ってないらしい。だから色々訊いてくる。

「あの民宿の亭主も、おそらく社長の四十年前の面影しか知らないのだろう」

「そうね、向こうも昨日の様子だと余り詳しくは知らないみたい」

 あの時は深紗子さんがありふれた苗字なら、あれほど敏感に反応していない。民宿の亭主とはおそらく四十年前の高校生時代に一緒に騒いだ仲間の一人で、それしか記憶には残ってない。

「でもあたしの名前は知ってたし、両親と三人家族なのも知ってたのよ」

 社長が一人であの集落を飛び出したとすれば、民宿のおやじは何もその後の社長を知らずに、その泊まり客からどこまで聞けたか、それを社長が仕切りにひつこく訊かれた。

「あの民宿の亭主は何処どこまで知ってるんだろう。宿泊予約者なら控えが残っていれば当事者だけに言い出しにくいなあ」

「変に勘ぐられるわね。それより父の事よ、叔父さんの名前は聞いたんでしょう」

 そうか彼女は社長の親兄弟、親戚については何も聞いてないのか。今までバイト以外は学校には提出する書類は必要なければ何も聞く必要もなかったんだ。

「聡って言うんだ」

「さとし、お父さんが茂宗なのに、何それ」

 兄に比べて単純すぎる。俺も最初は社長の口から出たときは彼女と同じ疑問が湧いた。本当に周囲が湖と山で囲まれた狭い限られた集落なら、長男の跡取り以外は外へ出る宿命を背負っていれば子供の名前なんかに執着出来ないのか。

「何でもあの集落に居残れるのは長男だけで、それには代々そんな名前を付けるが、次男以下はどうでも良いらしく、適当に元気で暮らせと謂う意味でありふれた名前にしているって言ってた」

 物心ものごころ付いたときから長男以外はそう頭に叩き込まれて育った。

「それじゃあ、益々叔父さんは何でや、と思ったでしょうね」

「それがそうでもないらしい。寝耳に水と謂う訳でもなく、兄弟だけの暗黙の了解と云うか事前に知った上での家出なんだって」

 その時期が問題だろう。直前なら彼女みたいに思ったが、問題は叔父さんがいつ知った。どうも社長の返事は曖昧だ。多分、何でこの男に話さないといけないのか、何処どこまで伝えておけばいいのか、頭の何で逡巡しゅんじゅんしていると思われる。なんせ将来の花婿候補なんだから。

「ほんと! お父さんがそんなことするとは思えないのに……」

「考えられるとすれば、駆け落ちするような相手がいたって云う話は今までなかったのですか?」

「これっぽっちも聞いていない」

「えらいハッキリ言い切るんだ」

「だってお母さん、そんなことするとは思えないもん」

 そうか、兼見のみ立てでも、それほど激情に走る人には見えない。

「今の奥さんと一緒に成る前に気の合う人は居なかったのか。だいたい社長と奥さんの馴れ染めは何処どこでいつなんだ」

「知らな〜い」

「何て謂う家庭だ。叔父さんとは昨日初めてこの事実を報されたなら、やっぱりあの民宿の亭主からもっと聞くしかないのか」

「早くしないと父が先手を打つかも知れないわね」

 口止めすると言うのか。いったい社長は何を隠しているのか。

「でも叔父さんは突然で何も知らないようね」

「社長の弟でもそうか、とすれば接点は民宿の亭主だろう」

 社長をよく知る人物が泊まった。しかも釣りに凝った人物で調べるか。

 ほうー、と深紗子は感慨かんがい深げに、だてに店長はやってないと頷いた。

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