第3話 深紗子3

 展望台から少し歩くと眼下に集落が見えた。奥琵琶湖パークウェイの入り口は今、見えている集落の端にある。手の届きそうに見えるが、間には傾斜のある深い山林で閉ざされて、山道もなくしかも夜間だ。

 下に見える集落の端までは直線で四百メートルもないが傾斜はかなりある。雪の積もった斜面に鬱蒼とした木々がなければスキーなら数分で滑り降りられそうだ。

「この傾斜を降りれば凄い近道なのに」

 と深紗子みさこは深い木々に閉ざされた斜面を恨めしそうに眺めて、眼下の集落に沿った人気のないパークウェイを歩きだした。

 二人は奥琵琶湖パークウェイの入り口近くまで二キロ弱を一時間以上歩いて湖岸集落に辿り着いた。そこで携帯電話は繋がった。やれやれ、とひと安心したが、JAFの車が長浜から来るのであれば、此の雪道でも四十分あれば着く。だがこの雪で側溝に脱輪した車や同じようにバッテリー上がりの依頼が多くて到着まで早くて二時間以上掛かると言われた。

「それなら実家に電話してお父さんに迎えに来てもらった方が良いんじゃない」

 とは言ってみても、彼女に初めて会ったときから素直に聞く人じゃない。

「冗談じゃないわ、お母さんに大見得を切って家を飛び出したのに、あたしにも意地が有るわよ。今更よくもそんなことが云えるわね。口論して飛び出した舌の乾かぬ先からおめおめとごめんなさいって簡単に言えるほどあたしは安っぽくはないわよ」

 何処どこか安くないのか、今も直ぐに反発した。

 上からスリーサイズは申し分ないスタイルだ。顔だって細面に目鼻立ちの整って見合いの席で気に入ってしまった。でも深紗子の方では見合いする前から観察されていたようだ。それで見合いを受けたのだから先ずは一次審査は受かったが、ここに来て最終審査の結婚で難題を打っ付けられた。

「でも此の状態では仕方がない」

「だからなんとしてもこの寒さをしのげる場所を探さないと……」

「窓から灯りが見える家もあるけれどどの家も寝静まっている」

「それなら民宿でも捜すのよ」

「それより、ひと晩帰ってこなければ両親が心配する」

「その点はあなたと一緒なら大丈夫って思ってるわよ」

「ほうー、俺も向こうの家族には信頼してもらっているのか」

「あたしを除いてはね」

「エッ!」

「何を素っ頓狂な声を出しているのよ! 。そんな暇があれば探してよ。民宿がなければお寺でも神社でもいいわよ。こんな所で二時間以上も待つつもりなの。本を正せば鈍くさいあなたの所為せいでしょう」

 そんな風に此の先、小突かれればたまらんと、先ずは目に付いた家に掲げられた民宿の看板に飛びついたが、灯りを閉ざしていた。こんな時は男より女の方が人当たりが良い。特に彼女の良さは見合いの席で気に入ったもうひとつの理由だ。ただし深入りすれば人当たりの良さに変化が生じると知ったのはもっと後だ。

 彼女にインターホンを押してもらって事情を説明した。こんな夜遅く受け付けはやってない。ましてバッテリー上がりなら始動に必要なブースターケーブルは持ってないと都合よく断られた。それでも深紗子は粘ってくれて頼もしいが、裏を返せばこの寒さがこらえ切れないとも受け取れた。最後に通話が切れかけると、薪美志まきみしと謂う者で怪しい者ではないと伝えた。これには兼見も、今更そこまで名乗っても無意味だと半ば諦めかけた時に玄関に灯りが点いた。これには二人とも嬉しさよりも驚いた。玄関のガラス戸越しに近づく宿屋の亭主らしき人影が見えると安堵した。

 開けーゴマ、「千夜一夜物語」じゃないが、この苗字には何か効き目のある呪文でも有るのかと兼見は深紗子を揶揄やゆした。彼女はそんな冗談も聞き入れる余裕がないのか、黙って近づく人影に専念している。

 直ぐに玄関を開けて宿屋の亭主が顔を見せ、二人を珍しそうに覗き込んだ。

 余りのひつこさに何か付いてますか、と怪訝けげんそうに深紗子は答えたが、次に発せられた言葉に耳を疑った。

「あんたら、あの神社の身内か?」

 なんなの此の人? 耳どころが頭まで混乱した。何ごとか解らず戸惑うと更に父の名前を聞かれると、もう困惑の極みに達したが、此の厳しい自然環境が一切の思考を停止させた。

「父は茂宗、薪美志茂宗」

 ほとんど条件反射に近い状態で言葉が飛び出た。これに直ぐに反応した亭主の表情に親しみが沸き上がった。

「あ〜あ、従兄弟いとこか」

 と更に訳の分からん話になって来た。

「それなら直接そっちへ行った方がええやろう。待ってや、電話してやるさかい」

 一旦、奥に引っ込んだが直ぐに玄関に出て来た。

「神社に電話した。向こうは直ぐに会いたいそうや。話は向こうですれば何でも聞いてくれる」

 と神社は此処から十分も掛からないと道順を聞かされて、訳も解らずに行く羽目になった。

 宿屋の亭主に追い立てられるように歩き出したが、ひょっとしたら俺達を泊めたくない一心で、上手く厄介払いしたのでは、と兼見は疑った。

「第一に変だ、深紗子さんの実家の名前を言っただけで、手のひらを返したように態度が変わるなんて、どう考えても可怪おかしいでしょう」

 此の後、たらい回しにされないかと兼見は危惧した。

「でも今より待遇が良くなるなら良いように考えましょう。それにJAFが来るまで凌げば良いんだから……」

 深紗子はいたって楽観的なのは、深刻さが増すより先に言われた神社が見えて来たからだ。元々ここはパークウェイからでも、全体が直ぐに一望できる狭い集落だ。しかも昭和四十一年に道路が出来るまでは、船でしか行けない陸の孤島、隠れ里と呼ばれた場所だった。


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