第2話 深紗子2

 義父の車から下ろされて女の車が止まっているところまで二百メートルあった。外灯は何もない。強いて言えば月光だけが深い森に閉ざされた広い無人の駐車場の隅々までを照らしている。その先は深い木々が月の光の顰蹙ひんしゅくを買って閉ざされていた。

 女は見えない、車の中か、月明かりに浮かぶ一台だけの車の傍に立ち、闇に閉ざされた運転席の窓から中を覗き込んだが、彼女は乗っていなかった。

 何処どこへ行ったんだ。ガードレールで仕切られた防護柵を跨いで越えた。そこからはなだらかな坂が続き、その先はまた深い森だ。森の向こうはおそらく切り立った崖で、そのまま真っ直ぐ琵琶湖の最深部まで続いている。まさかその先まで行ってはいないだろう、と疑心暗鬼に駆られて崖まで続く斜面を降りかけて深い闇に包まれた森の中に、木立とは違う雰囲気に気付いた。そこは一点だけ不気味に光っていた。良く見ると、それは彼女が手に持っている折りたたみ式のコンパクト手鏡だ。彼女はそれに月の光を集めてこちらを照らしていた。

 子供じみた女だ ! 。

 彼は闇を切り裂く鋭い光の束に目も当てられずに手の甲で遮った。遮ってから手の指の間隔を開けた。淡いベージュのダウンジャケットの両肩に黒髪が落ちて、魔女のフードのように見えたが、怪しげな瞳は緩めた頬で帳消しになって可愛い。

「どうしたんだ」

「どうもしないわよ」

 十六夜だろうか、雲の切れ間から降り止んだ雪を振り払い、少し上の方が欠けた月の光が彼女の頬を照らした。

「何が気に入らないんだ」

 深紗子は不意を喰らって、雲間の月のように少し陰った。

「別に、強いて言えばあなたがそこに居る事かしら」

 と不気味に嗤った。

「さあ車に戻ろう」

 と彼女の許に歩み寄った。

「まだ暫くここに居たい」

 しょうがねぇなあーと深紗子の横に立った。

「湖面に一筋のさざ波のような 光の線上に輝く月を眺めていたいのよ」

 複雑に幾つかの半島が湖面に突き出して、琵琶湖も北限まで来ると、何処か山奥の湖を見ているようだ。そんな気分とは裏腹に靴を通して立ち止まった足裏が冷たくなってきた。車に早く戻らないと全身が冷えて来る。神経が昂ぶっているのか、彼女にはそんな素振りはない。

「今日、母と喧嘩して家を飛び出してきたのはあなたとの結婚を考え直したいからよ」

 エッ、これには驚いた。

「どうして、何が気に入らんのや。俺は君を不幸にしないように真面目にコツコツと人生計画を幾つも立てているのに」

「そんなのつまらない。何が面白いの」

「しかし、このままじゃあお父さんもお父さんの会社も体面が保てなくて丸つぶれになる」

「それで潰れるような会社じゃないわよ、幾らでもまた新しい取引先を捜せば良いでしょう」

「一度潰れた体裁を繕うのがどれほど大変なのか遊び回ってる君に解るわけがないだろうなあ」

「あなたは表面だけしか見ないのね」

 半年前に一流ホテルで二人は結納を済ました。式もあとひと月半に迫り、既に仕事関係者一同には招待状を発送し終えて一部返事ももらった友人、同僚、お世話になっている人からの祝い物の相談まで受けていた。今更ながら取引先の社長に仲人まで頼んである。盛大に披露宴をする予定が組まれているのに、と怒鳴られて勘当だとまで罵られたそうだ。

「取り敢えずこのままじゃあ二人は此処で凍死する」

 大袈裟な人ねと嗤われた。

 車に戻ると彼女は先に助手席に座った。俺に運転せよって事かと運転席に座りエンジンを掛けるとストンとエンストした。

「なんだこれは」

「クラッチを踏まないとダメでしょう」

 エッ、これってマニュアル車、社長の年代物の車なら解るが、これって新車なのにオートマじゃない。

「何も驚くことはないわよ。遣ったことないの?」

「教習所で習ったけど……」

「じゃあどうぞ」

 セルフモーターを廻すと同時にアクセルを吹かすが何度遣っても掛からない。

「ガソリン吸い過ぎ。最初アクセルペダルは微調整しないとプラグが上手く点火しないわよ」

 代わった方が良いのか聞かれたが、男の沽券に関わると意固地になって兼見はエンジンを掛けようとするが、何度掛けても掛からなかった。その内にバッテリーが上がってセルモーターが止まってしまった。

「あ〜あ、鈍くさい人ね」

「どうしょう」

「JAF(日本自動車連盟)を呼ぶしかないわね」

 と携帯を操作して彼女は唖然とした。

「どうしたん?」

「最悪、圏外、湖岸に降りるまでに見通しのいい所に出れば繋がると思う」

「此処も見通しが良いけれどね」

「前の琵琶湖はよく見えるけれど……。周囲には幾つかの半島で遮られているのよね」

「仕方がない。繋がるとこまで歩こう。幸い雪は止んでいる」

 外は寒いけれど車内に居てもヒータが効かなくて朝までは持たない。じっとして居ればそれこそ凍死する。

なんて謂う疫病神やくびょうがみを背負い込んで仕舞ったのかしらッ」

 深紗子はひと言文句を云うと、決然としてドアを蹴飛ばし、降りた彼女が勢いよく閉めたドアに、兼見は蹴落とされる様に反対側に弾き出された。

「寒いけど凄い景色ね」

 車外に出た深紗子は積もり始めた雪に転び掛けてボンネットに手を置いた。

「まだエンジンの温みが残っている」

 と椅子代わりに座ると兼見も習った。

 眼前には雪化粧して開けた山水画を照らす月と、湖面に揺れ映す一筋の月の光が幽玄な世界を広げていた。車外に出た二人は暫く佇んだが、寒さに打ち負けて、今はスッカリ季節に見放されて、隔離されたこの場所から暖を求めて歩きだした。



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