願望はるか

和之

第1話 深紗子

 上賀茂神社から流れ出る小川に沿った一本道に、土塀で囲まれた大小様々な古い家が建ち並ぶ。その一角に五十坪ほどの敷地に二階建ての瀟洒しょうしゃな家が建っていた。その二階の窓越しに掛かるカーテンに向かい合う二つの影は、華奢きゃしゃに写って二人とも女性と解る。一方は長く揺れる髪で若い娘らしく、もう一方は髪を纏め上げているのか、ふっくらとしてこの家の母親らしい。この向かい合う二つの人影は、おそらく窓際で言い合っているように見えた。それは閉め切ったカーテンが激しく揺れて写っていたからだ。その内に立ち去るひとつの影を慌てて追うように消えた。暫くして、玄関からジーンズに赤いセーター姿に、淡いベージュのダウンジャケットを小脇に抱えた若い女が、長い髪を棚引かせて飛び出して来た。女は庭にある車に飛び乗ると、直ぐにエンジンを掛けた。後を追うように母親は、ダウンジャケットを引っ掛けて「待ちなさい! 夜中に何処へ行くのよ!」

 と後を追って慌てて飛び出した母親は、エンジン音に打ち勝つように大声で叫んでいた。

「気晴らしに奥琵琶湖へ行く」

「バカねッ、待ちなさいッ、こんな寒い夜更けに、しかも昼間ならともかくあんな誰も通らない危ない夜道で誤って崖から落ちたら如何どうすんの!」

 娘はその言葉に何かを暗示するようにニヤリと笑うと、母親の美由紀みゆきの制止を振り切って自宅から車線のない一般道に向かって車を急発進させた。

 止める言葉も虚しく走り去った車を恨めしそうに眺めて、直ぐに携帯でまだ会社に居る夫の薪美志茂宗まきみししげむねに連絡した。母から連絡を受けた父、茂宗は途中で部下に仕事を任せて事務所のある街中のビルから地下のガレージに行き、年代物の車を走らせた。途中で電話をして結納を済ませた婚約者の兼見義博かねみよしひろを乗せて妻から聞いた奥琵琶湖へ車を走らせた。

 夕日が落ちてしまえば誰も居なくなる場所へなんで娘の深紗子みさこは車を走らせるのか。そこに誰か居るのか、妻も途中から乗せた婚約者も的確な答えを欠いていた。恋愛結婚でない見合いをして結納を済ました婿養子候補も、小さい時から一卵性双生児のように付かず離れず育ててきた妻さえ知らないのに、最近知った婚約者の兼見義博には無理だ。とにかく以前に娘が飛び出した行き先を知ってるは妻は、勘を働かせて奥琵琶湖の葛籠尾崎つづらおざきと睨んでいた。その訳は帰って聞くとして、今は一刻も早く追い付きたいと車を走らせた。

 奥琵琶湖を一台の日産スカイラインRS昭和五十八年式のセダンタイプが葛籠尾崎の展望台に向かってエンジンを唸らせて登ってゆく。流石に年代物の車だけあって悲鳴を上げていた。三月とは云えまだ雪が降っている。幸い樹木を真っ白に染め抜いても路面までは染められない季節だ。

「まったく世話の焼ける娘だ、失恋が何だと言うんだ。男は五万といると説得して我が社では若くして一店舗を任した男と見合いさせて娘も了解しながら、今になって何と謂う言い草だ。間に合えばいいが、娘は新車でわしのは年代物だが、これが気に入っている以上は多少のポンコツ車でもしゃないが、こんな時に限って娘の新車が恨めしい」

 動転したが身投げをするつもりはない娘を追って、父は奥琵琶湖の葛籠尾崎へ車を飛ばした。助手席側に乗っているのは娘の婚約者だが、なぜか後を追うとはしない。義父親になる茂宗が呼び出して乗せたのだ。彼は無言のままで隣に座り、黙って闇が切り裂く前照灯が照らし出す路面をずっと見ている。少し変わり者だが腕が良いのを見込んで店を任せた。なあに人間みんな一皮剥けば似たようなもんだ。

「お前はそうして良くも黙っていられるもんだなあ」

 返事を期待していないが、こんな夜更けに地元の者しか通らない道では。運転する父親は黙っていられない。この道は限られた住民の殆どが昼間の買い出しと他の所要だ。こんな夜更けに出る住民は夜明けを待てない急病人だけだろう。

 娘が家を飛び出した原因はなんだ。なんせあいつは一人娘で何不自由なく育てのが裏目に出た。

「だが言っとくが娘を甘やかしたのはわしでなく妻の美由紀だ。妻は早く孫の顔が見たいと君を見付けたんだが、いや、間違ってない、申し分ない婿だと妻共々言ったが、肝心の娘があのざまでは申し訳ない」

「いや、いいんですよ彼女を甘やかしたのは僕の責任だから」

「責任か、いや待てよ。娘は男に振られて急に相手を探してくれと言ったが、ひょっとしてまたよりが戻ったか?」

「まさか最近まで一緒に出掛ける日が増えましたが、そんな傾向はこれっぽっちもありませんから……」

「灯台下暗しって云うことわざもあるからなあ」

「よして下さいよお義父さん、いえ、社長」

 早々と父と呼ばれても悪い気はしなく苦笑いをした。 

「まあ今度はとっちめないと君の手前、わしら夫婦は頭が上がらんよ」

 薪美志が市内で経営する三店舗の内の一店舗を任された。彼は頑張って売り上げを伸ばした。それが認められて一人娘を紹介され、本格的に付き合ってふた月後に結納を済まし、それから四ヶ月と経たない内にこのざまだ。

「見合いだが彼女に気に入られたはずだ。そうでなければわしらも勧めるわけがない」

 車は葛籠尾崎の展望台がある 開けた場所に着いた。そこに娘が運転していた車が一台だけ青白い月の光を浴びて不気味に停まっていた。

「さあ行って来い、わしはもう引き返すからなあ。あとは二人でよく考えろう」

 そう言い残して薪美志は車をそれ以上は進まず展望台の入り口で引き返して行った。


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