保健室のマリア

コウ

第1話 桜貝

 四月なのに、白鳥の鳴き声が聞こえた、気がした。

 一瞬。

 薄く平べったい水色の空に気を取られている間に体が落下し、はっとしたときには受け身を取り損なっていた。横転している視界の隅で、ゴールポストに当たったサッカーボールが、グラウンドに落ちている影の方へと転がっていくのがぼんやりと見えた。

 またやっちゃったなと思いながら、地面に手をついて上半身を起こす。口元を汗で湿っている肩口で乱暴に拭うと、口の中でサビ臭い風味が広がった。

 僕は一体、何を迷っているのだろうか。

 迷いはいつだって、僕の体を不自由にする。

「……ハルっ!」

 遠くで声が弾けた。その音を追いかけるように、小波渡涼介が僕の元へと駆け寄ってくる。涼介につられたように、他の部員たちもぞろぞろと僕の周りに集まってきた。

「大丈夫かっ!?」

 涼介の声が裏返った。

「肘から血が出てるぞ」

 涼介の隣に並んだ本楯宏樹が、僕の肘を指差した。ゴールキーパーを務める彼らしい、ちょっとやそっとのことでは動じない冷静な態度に、不覚にも頼もしさを感じた。

「痛そう……」

 宏樹の影に重なっていた西袋優也が、彼の肩から顔だけを覗かせて呟いた。優也は僕の肘の痛みを想像しているのか、眉間に深い皺が寄っている。

「立てるか?」

 いつまでも地面に尻を貼り付けたままの僕に、涼介が手を差し出してくる。ためらうことなくその手を掴み、涼介の力に甘えて立ち上がる。

 僕の怪我が大したことがないとわかるなり、僕を取り囲んでいた部員たちはグラウンドのあちらこちらへと散っていった。僕と涼介は練習の邪魔にならないよう、荷物置き場になっているプレハブ小屋の前に移動した。

 尻を叩くと、砂埃が鳥海山のほうへ舞っていった。

「あまり無茶はするなよ。オーバーヘッドなんて見た目が派手なだけで、シュートの決定率は高くないだろう。大会前に、怪我でもしたら洒落にならないぞ」

 涼介の溜め息も鳥海山のほうへ流れていく。空気が澄んでいるおかげで、今日は山を形作っている木々の輪郭がいつもよりはっきりと見える。

「無茶をしないと……」

 僕の言葉を遮るように、涼介のジャージのポケットに入っていたタイマーがけたたましく鳴り出した。

「十分休憩!」

 涼介が腹から声を出す。その声を風がさらっていく。

 部員たちはボールを蹴るのを止めると、雑談をしながら水飲み場へ歩き出す群れと、グラウンドの隅へと歩き出す群れに分かれた。僕も喉が渇いたな、と思いながらその様子を遠目に眺める。

 涼介は救急箱を地面に置くと、自身もその場に腰を下ろして箱の中身を確認し始めた。すっかり慣れたものだ。僕が怪我を適当に処理するせいで、涼介がおせっかいを働くようになっていた。

「……悪い! 絆創膏、切らしていたんだった」

 涼介が絆創膏の箱を逆さに振り、中身が空であることをアピールしてみせた。救急箱の中身の管理は、副部長である涼介の担当だ。几帳面な彼にしては珍しいミスである。

「保健室から貰ってきてくれ」

 悪い、ともう一度謝りながら、涼介が顔の前で手を合わせた。

「わかった」

 僕は最後まで言えなかった言葉を飲み込み、それが込み上げてこないよう、涼介から顔を反らしてゆっくりと歩き出した。

 グラウンドの北側では、野球部がシートノックをしている。野球部の顧問である古口先生が、声を張り上げながらバットを振っている。元高校球児の古口先生は、甲子園に出場した経験があり、野球部の生徒は耳にたこができるほどその武勇伝を聞かせられている。彼らはそんな古口先生にうんざりしているようだが、顧問が競技の経験者なうえに、熱心な指導をしてくれることを羨ましく思う。僕たちサッカー部の顧問である津谷先生は、今日もいつも通り、グラウンドに顔を出してもくれないだろう。

 グラウンドと校舎を結ぶ、十段あるかないかの階段を一段飛ばしで駆け下りる。

 坂田第一中学校の校舎は、坂の途中に建っている。グラウンドは、その坂を登りきったところに位置しており、最短ルートで移動するには、この階段を下りる必要がある。

 たった数分なんだけどな。

 階段を降り終え、職員室がある校舎の二階を見上げながら思う。でも津谷先生が部活に参加してくれたところで、技術的な指導ができるわけではないから、何がどうなるわけでもないんだけど。

 校舎の正面から昇降口へと入る。下校の波が一段落しているこの時間帯の昇降口は静かだ。スパイクから上履きに履き替えると、縮こまっていた足の指が広がり、体から力が抜けると共に自然と息が溢れた。

「珍しいな。サボりか?」

 自分の足を眺めていた顔を持ち上げると、掲示板の前に、クラスメイトの砂越海斗が突っ立っていた。

「サボりじゃねえよ。血が出たから保健室に行くだけだ」

 海斗に見せつけるように、擦り傷のついた肘を顔の高さまで持ち上げた。

「そうだよな。三度の飯よりサッカーが好きなハルが、部活をサボるわけないか。それにしても、たかが練習で怪我するなんて、相変わらず熱いヤツだな」

 海斗はすのこに下りると、下駄箱から靴を取り出した。よく見るとそれは、僕がほしいと思っていたスポーツシューズだった。青とも紺とも言い難い、なんとも絶妙な色が格好いいと思っていた。

「海斗こそ、こんな時間まで何をしていたんだ?」

 僕はその靴を見なかったことにして、海斗の後ろを通り過ぎた。

 六限が終わってから一時間は経っている。海斗は僕のクラスの学級委員長ではあるが、委員会には所属していなかったはずだ。放課後に用事があるとは考えにくい。

「図書館で勉強してた。今日の練習はナイターだから、学校から練習場に直行するんだ」

 海斗が淡々と答えた。

「へえ。そりゃあ、立派なことで」

 訊かなければよかった。

 僕は海斗に別れの挨拶もせず、そのまま廊下を歩き始めた。海斗も僕の態度を気にする素振りを見せずに去っていく。

 海斗は中学校の部活動には参加せず、県が運営するサッカーのクラブチームに所属している。そのクラブチームはジュニアユースと呼ばれており、いわゆる未来のプロサッカー選手を育てるための組織だ。その組織の中でも、エースの座に君臨している海斗は、将来有望なプロサッカー選手候補の一人というわけだ。

 我が校は、生徒は必ず何かしらの部活動に参加しなければならない校則になっているが、海斗はジュニアユースに所属することで特別に免除されている。それどころか、そのジュニアユースでの活躍により、学校の知名度を高めているという理由から、校長を始め、多くの教員たちから贔屓されている節がある。海斗が宿題を忘れても怒られることはなく、それどころか「昨日も遅くまで練習大変だったなあ」と労いの言葉をかけられるほどである。

 それでも海斗は、クラスメイトたちから疎まれていない。むしろクラスの中心人物だ。だからそのことを少しだけ面白くないと思っているのは、僕だけなのかもしれない。

 急に外から車のエンジン音が聞こえてきたかと思うと、昇降口の前でピタリと止まった。気になって振り返ると、真っ赤な軽自動車が停車していた。その車に、海斗が乗り込むのが見えた。

 あの車には、僕も何度か乗ったことがある。自分の家では嗅いだことのないお洒落な雑貨屋と同じ匂いがして、フロアマットには砂が一粒も落ちていない。おまけに車を運転するのはいつも決まって、僕の母と同い年には見えない美人なお母さんだった。僕の母と海斗の母は、小、中学校の同級生で、二人もこの校舎に通っていたという。

 海斗の母は、母という普通名詞よりも女性と言ったほうが相応しい外見をしている。長いこと東京に住んでいたとのことで、髪には艶があり、化粧もどこか上品だった。

 僕が後部座席に座ると『お疲れさま』と言って、運転席から身を乗り出してガムを一粒くれるのが恒例だった。そのせいで僕は、ブルーベリーの香りを嗅ぐたびに、脳裏に海斗の母の微笑む表情が思い浮かぶようになった。練習終わりの疲れた体にブルーベリーの甘酸っぱさは相性がよく、またガムを噛んでいる間は無理に喋らなくてもよい空気が流れるため、敗戦の後はとくに居心地がよかった。

 赤い車は、あっという間に視界から消え去った。いつの間にか口内に溜まっていた唾を飲み込む。そんなわけがないのに、ブルーベリーの味がした。



 気を取り直し、再び歩き始める。薄暗い廊下を突き進み、保健室へと急ぐ。この廊下は、午前中は陽の光が差し込むが、午後になると影が伸びる。

「すみませーん……」

 保健室に着くと、戸を半分ほど開き、その隙間から顔を突き出した。滅多に風邪をひかない僕にとって、保健室は縁のない場所であった。

 戸の向こう側は、静寂が漂っていた。

「……なんだ。保健の先生、いないじゃないか」

 遠慮していた戸を全開にして保健室の中に入る。すぐに、つん、と鼻の奥を薬品の尖った香りが刺激した。

 入口のすぐ傍には、二人掛けのソファが、ローテーブルを挟んで向かい合う形で置かれている。

 誰の返事もなかったから、室内は無人だとと思い込んでいたが、よく見ると、ソファの奥に学習机が置いてあり、そこに一人の少女が座っていた。

「……誰!? 保健委員の人?」

 心臓が跳ね上がった。その振動に急かされるように、つい早口になった。

「ほ、保健委員じゃない……」

 少女も突然の訪問者に驚いているのか、おどおどした口調で答えた。

 彼女の小柄な体型からして、おそらく一年生だろうと思いながら視線を床に落とす。上履きのラインの色を確認すると……緑! 跳ねるように視線を持ち上げ、彼女の顔を凝視した。

 同じ学年に、こんな子がいたのか……。

 僕は自分とお揃いの靴をもう一度確認した。たまに憧れの先輩から貰ったジャージを着ている女子はいるが、さすがに靴となるとサイズが合わないと履けないだろうから、この靴は彼女本人のものだろう。

「……血! 血が出てるっ!」

 驚いた拍子に、無意識に腕を持ち上げていたようだ。彼女は僕の肘を見るなり、椅子から立ち上がった。

「これさ、部活で怪我しちゃって。でも保健の先生がいないから、どうしようかなって……」

 早く戻ってこないだろうか、と期待を込めながら戸を見つめる。

「五十川先生は職員会議に参加してるの。消毒液と絆創膏が置いてある場所なら、私でも知ってる……」

 彼女はそう言うと、デスクの近くに置いてあったワゴンの中から、消毒液とコットン、それから絆創膏を手に取り、僕に差し出した。僕はそれらを受け取ると、近くにあった丸椅子に腰を下ろした。

「君は、こんなところで何をしているんだ?」

「えっと……」

 彼女が顔を隠すように、つむじが見えるほど深く俯いた。

 自分から訊いておきながら失礼だが、正直彼女が何者なのかはあまり興味がなく、早速傷口に消毒液をかけ始めた。

 ド田舎の中学校ということもあり、一学年百人足らずの人数だが、同じクラスになったことのない女子ならば、顔に見覚えがなくても何も不思議なことではない。

 傷口に消毒液が染み始め、すぐに想像通りの痺れが訪れた。堪らず目をつぶり、その痛みに慣れるまでの時間を耐え忍ぶ。

 無理をすればこんな風に痛みが伴うということを何度も経験しているのに、どうして僕は学習しないんだろうと思いながら、やっぱり仕方ないんだろうなとすぐに言いわけが追いかけてくる。

 僕は海斗みたいに恵まれているわけではないから、いつだって本気じゃないといけないのだ。

 傷口にかけすぎた消毒液をコットンで拭き取り、絆創膏を貼る。

「絆創膏、傷口からずれてるよ」

 はっとして、顔を上げる。あまりにも静かだったので、僕は一瞬、彼女の存在を忘れていた。

「本当? 自分だと見えづらくて……」

「貼り直してあげる」

 彼女は中腰になると、僕の肘に貼ってある絆創膏を一度丁寧に剥がし、皺を伸ばしてから貼り直した。まるで割れ物に触れるような、ずいぶんと慎重な手つきだった。

 その短い間、僕は彼女の指から目が離せなかった。

 桜貝みたいな小さな爪を見て、愛おしいと思った。

 それからすぐに、その感情に覆いかぶさるよう、自分の中から愛おしいという感情が芽生えたことに対する驚きと戸惑いが沸々と湧き上がってきた。その感情の上書きは、誰かに胸の内側を見られているわけでもないのに、照れくささをごまかすようなものだった。

 彼女の手が、僕の肘から遠ざかる。

 お礼を言おうと思って口を開きかけると、

「失礼します」

 涼介が行儀よく頭を下げ、保健室に入ってきた。

「涼介! どうしたんだ?」

「どうしたはこっちの台詞だよ。休憩時間はとっくに終わってるぞ。ハルがなかなか戻ってこないから、心配で迎えに来たんじゃないか」

 涼介が声を大きくした。

「いやあ、保健の先生がいなくてさ……。それで、代わりに彼女から消毒液と絆創膏の場所を教えてもらったり、絆創膏を貼ってもらったりしていたんだ」

 それからと、と言いかけたところで、

「彼女?」

 涼介が上から声を被せてきた。僕の言葉で初めて彼女の存在に気づいたようで、僕の隣に立っている彼女をちらりと盗み見た。彼女は物陰に身を隠すように体を縮こまらせていた。

 涼介の目がさ迷うように揺れ動いてから、突然黒目が大きく広がった。

「こんなことをしている場合じゃなかった! 急ぐぞ、ハル! グラウンドに遊佐さんが来てるんだ!」

 涼介が早口で言った。

「遊佐さんが? それを早く言えよっ!」

 僕は慌てて丸椅子から立ち上がった。

「でも今日は平日だろう。どうして遊佐さんが練習に来てくれたんだ?」

 ふと冷静になり、涼介に訊ねる。

「また女性にフラレたんだって。今回は同じ会社の後輩らしいよ。ストレス発散にボールを蹴らせろ、って部活に乗り込んできた」

 涼介が肩を竦めた。

「遊佐さん、相変わらずだな」

 遊佐さんが女にフラれて部活に乗り込んでくるのは今回が初めてではない。グラウンドで暴れる遊佐さんの姿は容易に想像できた。僕は八つ当たりをされているであろう部員たちを不憫に思って溜息を吐いた。

「遊佐さんには悪いけど、今回もフラレてよかったよ。普通は彼女がいたらさ、いくら母校とはいえ、中学校の部活のコーチなんて続けてくれないだろうから」

 涼介がさらりと言った。

「でも遊佐さんって、普通じゃないよな」

 僕の言葉に、確かに、と涼介が笑った。

 遊佐さんは高校を卒業して社会人になった年から、サッカー部のコーチを務めている。前任のコーチから声を掛けられ、二つ返事で引き受けたと言っていた。遊佐さんは、サッカー経験のない顧問の津谷先生に代わり、僕たちに技術指導をしてくれている。津谷先生よりも僕たちと年齢が近いこともあり、部員にとってはお兄さん的な存在でもある。僕たちの話をよく聞いてくれるため、部員たちからの信頼は厚い。その一方で、中学生を相手に、彼女なんて作らずにサッカーに集中しろ、と本気なのか冗談なのかわからないことを言ったりもする。彼女がいる部員に、むだに絡んでいたこともあった。

 遊佐さんはつい先日二十四歳の誕生日を迎えたばかりだ。来年で二十五歳になることもあり、遊佐さんを「アラサー」と呼んでからかうのが最近の流行だ。それに対して、遊佐さんが「アラハタだ!」と返してくるまでがワンセットのお決まりになっている。

「早く部活に戻るぞ! みんなから恨まれたくないだろう」

 涼介が僕の背中を押した。

「これ、ありがとう!」

 僕は首だけで振り返り、彼女にお礼を言った。

 彼女は口を僅かに開いたが、何も言わなかった。無言のまま、ちょこん、と遠慮がちに頭を下げた。

 僕と涼介は競うように保健室から飛び出した。

「今のって、大山さんだよね……? 大山マリアさん」

 廊下には誰もいないというのに、涼介は何かを警戒するよう、僕に耳打ちした。

「涼介、あの子を知っているのか?」

「知ってるも何もクラスメイトじゃないか」

「え!?」

 思わず足を止めた。

 涼介が顎をくいっと前に動かし、立ち止まるなと訴えてくる。

「ほら、二年生の新学期からずっと不登校の女子が一人いるだろう。久しぶりに顔を見たから自信がないけど、多分そうだと思う。おれ、一年生のときも大山さんと同じクラスだったから」

 涼介の言葉で、僕はピンときた。僕たち三年三組の教室には、いつも誰も座らない席が一つある。窓際の一番後ろの席だ。

「へえ……。マリア、か」

 僕は独り言のように呟いた。その声は、音のない廊下に、吸い込まれるように消えていった。

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