第8話 相思相殺(前編)

 通路に反響する、絶え絶えの呼吸。

 自らの兄を追う、不規則で緩慢な足音。

 


「お兄ちゃん……どこ、行ったの……?」

 


 無我夢中といった様子で部屋を飛び出していったアルクを、『セリカ』ことセラは息を切らしながらも追っていた。しかし彼女自身、魔族でありながら自ら戦闘をもちかけるようなタイプでもないため、全力疾走したアルクを見失ってしまっていた。


 

(さっきのアルクくん……絶対おかしかった……)

 


 肩で息をしながら、セラは先程のアルクの様子を脳裏に浮かべる。

 大切な『妹』である自分には目もくれずに、一人で行動に出た――それだけで、彼を支配していたつもりでいた彼女にとっては非常事態であった。


 

「まさか、洗脳が解け始めてるの……?」

 

 

 不安を募らせながら、セラはそれでも兄の通った道を辿る。

 そんなはずはない、と信じて疑念すらも振り払い、彼女は顔を上げた。


 すると、そこには。




「――やぁ、セラ。何か困りごとかい?」



 

 仮面で顔の半分を覆った、長身の魔族が佇んでいた。

 彼の名はヒュプノクラウン――セラの師にあたる人物であった。


「し、師匠……?」

 

「どうしたんだい? そんなに息を切らして。らしくないじゃないか」

 

「い、いえ、別に……私はその、大丈夫で――」


 

 突然の再会に狼狽え、セラは思わず言葉に詰まってしまう。自分の洗脳対象が逃げ出した、などと自分の師の前で堂々と言うわけにもいかない。加え、彼が以前自分に言い聞かせた「ルール」の存在もある。

 

 そのまま押し黙るセラだったが、そこにただならぬものを感じ取ったのかヒュプノクラウンは一歩彼女に歩み寄り、声色を変えて問いかけた。


 

「――まさか、のかい?」

 

 

 ドクン、と少女の心臓が大きく脈打った。

 頭上から注がれるのは、自分の師からの『失望』の視線。

 

 

「ハハッ……そうかそうか。君は昔から、反応が素直だね」

 

「ち、違うんです! その、彼はまだ勝手に部屋を抜け出しただけで、洗脳が解けたと決まったわけじゃ――」


 

 冷ややかな視線に気圧され、セラはあたふたと弁明を試みる。

 道化師クラウンはそれに耳を貸さず、やがて瞳を閉じた。


 そして一転、さらけ出した顔の半分で笑顔を見せた。

 


「まあいいさ! 失敗を気に病むことはない!」

 

「え……?」

 

「失敗なんて誰にでもあるさ。失敗作は“処分”して次に期待するんだ!」

 

「処分って……そんな、アルクはまだ――」


 


「――できるだろう? 君は、私の可愛い弟子なのだから」



 

 耳元で囁かれたその一言に込められたのは、殺気。

 有無を言わさない、調教師の命令だった。


 

「……はい、わかりました」

 

 

 瞳に涙を溜め、セラは首を縦に振った。




         §




 少し前から、考えるのを辞めていた。

 

 滑らかに発音された、付与魔法の詠唱。

 全身を使って、流れるように放たれた拳の一撃。

 

 わけもわからぬまま、本来味方であるはずの魔物にそれを叩き込んだ。

 無意識に、でも――全力で。


 

(何やってんだ、俺……)

 

 

 わからない。

 自分の意志とは関係なく、身体が動くから。

 

 いや、むしろこれが俺の“意志”なのかもしれない。


 

(こんなの、セリカに怒られんだろ?)


 

 ああ、そうだ。

 なんなら部屋に置き去りにしたし、この後たっぷり怒られるだろう。怒られるだけで済めばいいんだけど……。


 でも、そんなリスクを冒してまで、俺は。

 こんなにもバカげた行動を、『正しい』と信じていた。



 

「――【魔槍の加護グングニール】!!」



 

 拳が鎧を打ち砕き、魔物の巨躯が衝撃で吹き飛ぶ。

 俺はその“幻影”を追って疾走し、胸部に無理やり手を突っ込んだ。


 怒りで血管の浮き出た腕が、確かに奴の魔石コアを掴む。


 

(これで……いいんだよな?)


 

 最後にもう一度、自分に言い聞かせた。

 返ってきた答えは、紛うことなきYESだった。


 

「――ああああああああッ!!」


 

 獣のような雄叫びとともに、俺の手が魔石を引き抜く。

 敵の心臓をもぎ取った俺は、迷うまでもなくそれを握り潰した。


 粉々に砕けた魔石の破片が、無残にも地面に散らばった。

 心臓を失った哀れな幻影は、淡い煙となって宙に消えていく。


 やり場を失った手と感情を、俺はぶら下げた。

 

 これで、俺は良かったんだろう。


 

「……た、倒した……?」

 


 背後から、さっき観ていた少女たちの声が聴こえてきた。

 ふと我に返ってみれば、彼女たちからすればまぞくは敵だ。


 あっちには回復役もいる。人数的にも勝てる自信はない。

 手痛い一撃をもらう前に、俺は退散しよう。


 やりたいことは、終わったんだ。


 

 

「――ま、待って!」



 

 震えた声が、背中に投げかけられる。

 俺の頭をぐちゃぐちゃにかき乱した、あの少女のそれだった。

 


「……兄さん、なんでしょ?」

 

 

 その一言は、妙に心に突き刺さった。

 思わず俺は振り返りそうになって、やめた。


 そんなはずはない、とでも言おうとしたのだろうか。


 

「姿は変わってても、兄さんだから、助けてくれたんでしょ!? わたし、わかるよ! だって兄さんはいつも、わたしが困ったときに駆けつけてくれるヒーローでっ――」

 

 

 兄さん。兄さん。兄さん。

 

 聞き覚えのある単語が、幾度も鼓膜を打ちつける。

 


「わたしの大好きな、兄さんなんだから!」

 


 今すぐ振り返れ、そう心が叫んでいる。

 でも、それだけは駄目だ。


 だって俺は、お前の兄さんなんかじゃ――




『――――お兄ちゃん!!』




 やけに響いたその声に、俺ははっとして顔を上げた。

 息切れしながらも駆けつけた『セリカ』が、そこにいたのだ。


 

「セ、リカ……」


 

 背後から投げかけられていた少女の声が、いつの間にか止んでいた。

 茫然とする俺にセリカは歩み寄ると、魔石の破片のついていた俺の右手を躊躇なく掴んだ。それはまるで、「連れ戻しに来た」とでも言外にいうかのように。


 

『帰ろう、お兄ちゃん』


 

 それ以上、セリカは何も言わなかった。

 

 でも、やっと我に返った気がする。

 俺は『セリカ』の兄なんだ。


 馬鹿なことはやめて、帰ろう。


 

「なんで……待って、駄目! 兄さん!!」

 

 

 セリカに手を引かれる俺を、あの少女の声が呼び止める。

 その悲痛な叫びに、胸の奥が抉り取られるようだった。


 今度こそ俺は、その声に応えようと振り返ろうとした。

 懐かしいその声に、甘えようとした。


 

『駄目だよ。お兄ちゃん』


 

 だが、セリカの眼がそれを許さなかった。

 じっと俺を見つめる、残酷なほどに真っ赤な瞳。


 俺はきっと、この瞳には逆らえない。


 

「嫌だ……おいていかないで! 帰ってきてよ、兄さん!!」


 

 少女の靴音が、段々と近づいてくる。

 駄目だ。頼むから、来るな。


 俺はまだ、お前の声には応えられない。



 

「ごめんな」


 

 

 その一言だけが、俺の口からこぼれ落ちた。

 それ以上は、口に出せなかった。


 セリカに手を引かれて、俺は来た道を引き返す。

 あの少女の泣き叫ぶ声が、やけに耳に焼き付いた。




         ***




「座って、お兄ちゃん」

 

 

 セリカは俺にそう言って、テーブルの席についた。

 俺も特に何も言わず、いつもの椅子に腰掛ける。


 

「話しておかきゃいけないことがあるの」

 


 そう前置きして、セリカは少し俯いた。

 俺も頷いて、先を促した。

 何より、俺も知りたかったのだ。

 

 突然現れたあの“意志”の正体を。

 俺を兄と呼んだ、あの少女のことを。


 違和感の露呈した、今の関係の真相を。

 

 

「まず、あたしとお兄ちゃん――ううん、のこと」

 

 

 あえて、セリカはそう言い換えた。

 いや、もしかするともう、彼女は……

 


「あたしたちは、偽物の兄妹なの」


 

 はっきりと、セリカは俺に告げた。

 それから少しづつ、俺の中の違和感が腑に落ちていく。


 

「アルクくんは元々は人間で、あたしは魔族の洗脳師」

 

 

 俺が、元々は人間。だが今なら、あれもすべて説明がつく。

 

 魔族の食事が美味しくなかったのも。

 死にゆく人間を見て、軽く嫌悪感を覚えたのも。


 すべて、俺の中に人間の『心』が残っていたから。

 


「このコインに、見覚えがあるでしょ?」

 


 するとセリカは、胸元からあるものを取り出した。

 細い紐に繋がれた、一枚のコインだ。


 彼女がそれを振り子の要領で揺らすと、脳裏に仕舞っていた記憶が徐々に蘇ってくる。


 

「まさか、それで俺を……」

 

「そう、洗脳したの。身体を魔族化させるのと同時にね」


 

 うっすらと、思い出してきた。

 彼女と初めて出会った、あの日の記憶を。


 彼女に痛めつけられて、選択を迫られたこと。何か大事なものを守ろうとして、俺は結果的に彼女に自分のすべてを明け渡したこと。


 

「そのときに、暗示をかけたの。あたしを妹として、大好きになるようにって」


 

 俺の中に芽生えた、偽物の妹への愛。

 俺と彼女を繋ぎ止めていたのは、そんな欺瞞に満ちたものだった。


 俺が、俺だけがずっと、騙されていた――



「だから、キミのあたしへの想いは、全部『偽物』だよ」

 

 

 俺の信じていた絆こそが、嘘の塊だった。

 

 そんな悲劇的な真実を知ってすべてが腑に落ちるとともに、俺が『セリカ』という偶像に見ていた愛情めいたものが、次々に剥がれ落ちていく。俺たちの間の心の距離が、急激に遠のいていく。


 目の前にいるのは、俺を騙していた魔族の少女。

 俺の妹を“演じ”、その果てに役を失った役者。


 その事実を、俺はただ受け入れるしかなかった。

 


「……でもね、」

 

 

 呆気にとられていた俺を、彼女の言葉がまた呼び戻す。




「――あたしのアルクくんへの愛は、本物だから!」




 彼女の突飛な発言に、俺はまた呆然としてしまう。

 だがそんな俺にはお構いなしに、彼女は頬を赤らめながら続けた。

 


「ダンジョンで一目見たときから、大好きだったの」


 

 懐かしい昔話をするかのように。

 彼女は一人、流暢に言葉を並べ立てる。



 

「キミのその、宝石みたいな緑色の瞳に、文句なしに整った鼻筋……艶っぽくて柔らかい猫っ毛の黒髪、育ちのいい立派な上背、男の子らしく骨ばった手、線は細いけど健康的で頑丈な身体……!」

 


 

「そのすべてがあたしのものになったらいいなって、いつも思ってた!」



 

「でも、実際に手に入れて、また新しい魅力を見つけたの」

 


 

「キミが本当に大切な人にだけ見せる、優しくて柔らかい、はにかんだ笑顔。この世界でも、きっと限られた人しか知らない、キミの最大の魅力……!」




「それを見つけちゃったせいでね、あたしはもう、キミのことが好きで好きでたまらないの。本当に、心から大好きで大好きで大好きで大好きで――


 


大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで

 

 

 

「心から、愛してる」                  




「だから、キミも愛して。あたしのこと」

 



「キミのことが大好きな、あたしのこと」




「あたしが、『セリカ』じゃなくなっても」 

 



「キミが、


 


「だから、どんな姿になっても、アルクくんは――」




 彼女はテーブルの下から、重そうな何かを引っ張り出す。

 

 俺がその正体を判別する前に、彼女はそれを振り下ろした。



 



「あ た し の こ と だ け 見 て れ ば い い の」



 



 意識は、そこで途切れた。




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