第3話 堕落
差し込む薄い朝日が、少女のいる部屋を淡く照らし出す。
少女はただ一人、誰もいないリビングに立ち尽くしていた。
「兄、さん……?」
まだ陽も昇りかけの早朝、セリカはいつもと変わらぬ時間に目覚めた。
普段ならば彼女はこれから、兄のアルクと食べる朝食を作って彼と食卓を囲み、朝食後に冒険者としてダンジョンに赴く彼を見送る。それが、長年続けてきた彼女の朝のルーティン。妹として兄を支えてきた、彼女の習慣。
だが、その日は。
「兄さん? ねえ、どこにいるの……?」
ベッドで泥のように眠っている筈の兄の姿が、そこになかった。
セリカは寝起きで霞む目を擦りながら、小さな家の中を探し回る。
ベッドの下、クローゼットの中、食器棚の裏。
家中くまなく捜索を続けるが、どこにも兄はいない。
狭い家だ。探せる場所など最初から高が知れている。
あえなくリビングに戻ってきたセリカは、また独り呟いた。
「装備がなくなってたし、ダンジョンにでも行ったのかな……」
一人になる
これまで、兄はそんな自分を心配させるような真似はしてこなかった。
少なくとも、自分の知っている限りでは。
そんなはずはない、と彼女は自分の仮説を即座に否定する。
「うん……しないよね、兄さんに限ってそんなこと!」
不安を振り払うように、彼女は自らに言い聞かせる。から元気で明るく振る舞おうとした彼女だったが、当然それだけではまだ不安は払いきれない。
「……じゃあ、兄さんはどこにいったの?」
語尾を弱々しく沈めながら、一対の椅子が並ぶテーブルに近づく。
アルクがいつも座っている、木の椅子。
使い古されたその椅子に腰掛けるべき人物が、今はどこにいるか――それどころか、最悪生きているかどうかすらーーわからない。それは14年と少しをここで生きてきたセリカにとって、初めての体験だった。
ただ、寂しい。
兄の帰りを待つときのそれとは全く異なる、別物の孤独感。
突然降り掛かってきた不安と寂寥感に、彼女は耐えられるはずもなく。
「……ギルドに行ったら、まだ会えるかな」
不安に押し潰されそうになりながら、言葉を振り絞る。
そしてその重みに突き動かされるように、セリカはすぐさまテーブルを離れた。
深く考えるよりも先に、彼女は寝間着を脱ぎ捨て、外出着に着替えて身支度を整える。それから最低限の戸締まりを確認し、急かされるように靴を履いて玄関を飛び出た。
「――待ってて、兄さん!」
朝日が昇り、少し遅れて街が目覚めていく。
早朝から街へ駆け出したセリカは、息を切らしながらギルドへとたどり着いた。だがまだ時間も早く、ギルドはおろか、その周辺の商店や屋台すら開店していない。
焦りを助長されながらも、セリカはその扉の前から動かない。
(ここで待ってれば、帰りに寄ってきた兄さんと会える……はず)
人通りの少ない大通りの先を、彼女はただ見つめる。
空腹で腹が鳴ったが、今さら朝食をとる気にもなれない。兄と会うことを第一に考えていた彼女は、自分の事情などお構い無しだった。
(黙って出かけたこと、ぜったい謝ってもらうんだから!)
――無事に兄と会って、早くこの不安を払いたい。
セリカはその一心で、ギルドの前でアルクを待ち続けることを決めた。
店の支度を始める街の人々が奇異の視線を向けたが、彼女は気に留めない。
定刻になってギルドの扉が開き、見知らぬ冒険者たちが入っていく。
それから少し経って、壁に寄りかかった彼女が眠気に襲われ始めた頃。
「――なあ君、誰か待ってるのかい?」
一人の青年が、セリカに声をかけた。
「ふぇっ!? あっ、はいっ!」
寝落ち寸前、かけられた声にセリカは軽く飛び上がる。
眠気の吹き飛んだ彼女の前に現れたのは、兄のアルク……ではなく。
――彼のパーティメンバー、フェルディナンドだった。
「ああ、ごめん……驚かせるつもりはなかったんだ」
「い、いえ……」
「それで、こんな時間に一人でどうしたんだい? 何か困ってることでも――」
「――ちょっとフェルド、あんまり他人のことに首突っ込むのはやめなさいって、いつも言ってるでしょ?」
戸惑うセリカを気遣っていたフェルディナンドを、近くにいたクレアが咎める。
彼のパーティメンバーの少女たちも、ともにギルドに赴いていたのだった。彼らに囲まれて狼狽えるセリカだったが、そこに一つの声が割って入る。
「あれ……もしかして、セリカ?」
後ろに控えていたフェオリアが、おずおずと訊ねる。
ひと昔前、アルクと幼馴染みだった彼女だけは、当時幼かったセリカとも交流があったのだ。
「はい……えっ、もしかして、フェオリアお姉さん……?」
「そうだよ。久しぶり」
「あれ、フェオリア先輩の知り合いですか?」
「うん……この子、アルクの妹だよ」
「――はぁ!? こ、この子があいつの!?」
「ていうかあの人妹いたんですか!?」
クレアとアリシアが口を揃えて驚くなか、察しのついた様子のフェルディナンドは咄嗟に口を開いた。
「待ってくれ……じゃあ、君がここにいるってことは――アルクに何かあったってことだね?」
彼の踏み込んだ質問に、セリカは強く頷いた。
一同が静まり返り、彼女は震えた声で訴えかける。
「今朝起きたら、兄さんが居なくて、装備も持ち出されてて……だからその、兄さんを探すのを手伝ってほしいんです!」
一同は顔を見合わせる。
それで少女らの意志を問うたフェルディナンドは、冷静に切り出した。
「わかった。その話、詳しく聞かせてくれ」
§
どのくらい、時間が流れただろうか。
曖昧な意識を繋ぎ止めながら、俺はまた目を覚ました。
「……っ」
手足全体が痺れ、指先に鋭い痛みが走る。
爪の剥がされた指先は赤黒い血で覆われており、変色した皮膚がむき出しになっていた。依然として椅子に縛られたままの俺の身体は、もうボロボロだ。
そう、この傷もすべてあの少女の……
「……あれ?」
俺はたしか、あいつに散々いたぶられて、それから――
ああ、そうだ。思い出した。
「言っちまったんだよな、俺……」
その瞬間、一番嫌な記憶がフラッシュバックする。
刺すような頭痛が走る脳内に、やがて忌々しい
「そういえば、自己紹介がまだだったね。あたしはセラ、よろしく!」
セラ、と名乗った魔族の少女は、無邪気に笑った。
見た者を狂わせてしまいそうなほどに奇麗な真っ白い髪と、血のように紅い瞳、そしてセリカとほとんど変わらないくらい華奢な体躯をした少女。そんな
魔族は皆、自ら容姿を端正に作り変えていると聞いたことがある。
理由は他でもなく、人間の警戒心を解き、“魅了”するため。
「キミの名前は?」
「……言いたくねぇ」
「え〜……別にいいでしょ、名前くらい。教えたからって何か悪いことに使うわけじゃないよ?」
「…………」
いくら見た目が少女とはいえ、相手は魔族だ。沸点や感情の振れ幅も人間とは違う。
素直に言うことを聞いておいたほうが、自分の身のためだと俺は考えた。
「……アルク。アルク・キルシュネライト」
「きるしゅね……なに?」
「キルシュネライト」
「ふーん……まあそっちはどうでもいいや。アルクくんって呼ぶね」
魔族の少女――セラはそう言って、心做しか嬉しそうに椅子と同化した俺に歩み寄った。彼女の肢体が揺れ動くたび、蠱惑的な甘い匂いが鼻腔をくすぐる。というか、ファミリーネームの方は普通に無視されたらしい。
俺は冷や汗を流しながら、彼女の言動ひとつひとつに注意を払った。
「じゃあ……アルクくん、あたしにひとつ協力してくれる?」
「協力……?」
「そう。あたし今ね、ある人に課題を出されてるんだ」
その課題ってのは何なんだよ、とでも聞いてほしそうに彼女は俺のことを見つめる。俺がなんとなく黙ったままでいると、彼女は一人で流暢に喋りだした。
「あたしの魔術の師匠がね、〈洗脳魔術〉で人間を一人従えてこいっていうの。一人前の〈洗脳師〉になるための試験みたいなものだって。……というわけで、アルクくんには今から、身も心もあたしに捧げてもらう。文字通り、あたしの忠実な“
「……それが、協力?」
「そう。あ、でも心配はしなくていいよ。あたしの〈洗脳魔術〉があれば、あたしの言うことを聞いてるだけで儀式は完了するから」
そう言うと、彼女は胸元から紐に繋がれたコインを取り出した。
勿体ぶりながらそれを俺の前に見せ、振り子の要領で左右にゆらゆらと揺らしていく。どうやら、もう儀式とやらは始まっているらしい。
「【闇がその身を覆い尽くす時、魂は深淵へと
彼女が怪しげな呪文を唱え始め、俺は次第に焦りを感じた。
絶え間なく揺れるコインに、視線が自然と吸い込まれていく。
「【死がふたりを分かつまで、汝は、我が導きに従うことを誓いますか?】」
コインの輝きが、より一層強まった。
それを茫然と見つめていた俺の口は、意志に反して動き出す――
「――――誓うわけないだろ」
なんてことは、なかった。
俺の意志は、まだこんなところで折れはしなかった。
「……え? な、なんで? 協力してくれるんじゃ――」
「協力するなんて俺は一言も言ってない。そもそもこんな適当なやり方で、俺が従うわけないだろ」
少女のやけに驚いた表情で緊張が一瞬解け、俺は強気に反撃に転じた。
先の儀式はあくまでも、俺の了承がなければ成立しないものらしい。なら、俺にもまだ抵抗の余地は残されているってことだ。見たところ話の通じそうな相手だし、うまく説得できれば脱出は不可能じゃないはず。
俺にはまだ、やりようはある。
さて、彼女はどう出るか。
「そっか……うん、まあ、そうだよね。洗脳の儀式をするにしても、まずはあたしに従ってもらわなきゃだめだよね……」
さっきまでの勢いを失った彼女は、弱々しく呟いた。
指に吊り下げたコインを仕舞うと、縛られた俺の右手にそっと触れる。
「だったら……
彼女の声色が一段階落ち、悪寒が身体中を駆け巡った。
だが、もう遅かった。
彼女は、俺の親指の爪を引き剥がした。
「…………は?」
爪が、ない。
剥がれた。剥がされた。
「――ああああああああああああああああああぁぁぁぁっ!?」
「へぇ〜……綺麗だね、人間の爪って」
激痛で叫ぶ俺を横目に、彼女は剥がした俺の爪を見つめている。
完全に、油断していた。
こんな見た目でも、彼女は魔族だ。人間離れしたその力なら、人の爪を片手で剥がすことも躊躇せずにそれをやり遂げることもわけないと、わかっていたはずだ。
状況を正しく理解すべきだった。
彼女は狂っている。
そんな彼女に捕まった俺は、詰んでいる。
「人間もさ、大概残酷だよね。相手が言うことを聞かないってわかったら、こうやって手荒な手段を取るんだから。でもまあ、これが一番効率いいのかもね」
「……っ!」
「それで……どう? 少しはあたしに従う気になった?」
彼女は俺の人差し指の爪に指を添え、尋問官のように俺に問う。
わかりやすい二択を迫られ、俺は再び焦燥に駆られた。
――大人しく彼女に従うか、このまま地獄を見続けるか。
これ以上、痛いのは御免だ。
でも、俺は。
「……従わない!!」
そう簡単には、屈する訳にはいかない。
「なんで?」
じわじわと、少女は爪を肉から引き剥がしていく。
泣き喚きたくなるような痛みを堪えて、俺は叫んだ。
「――俺はっ……帰らなきゃいけないんだ! あいつのいる家に!!」
そうだ。
俺は、帰るんだ。帰らなきゃいけないんだ。
セリカを、一人にしないために。
たった一人の家族を、この手で守る為に。
「ふーん、そう。あなたにも、大事なものがあるんだね」
二枚目の爪を剥がし、彼女は冷淡に言う。
「――あああっ!!」
「じゃあ、
彼女は、椅子に固定された俺を置いて歩き出そうとする。
「……っ、待て、それは……それだけはやめろ!!」
「え〜?」
「妹にだけは――セリカにだけは、絶対に手出しするな!!」
壊される。こいつに、何もかも。
それだけは、死んでも御免だ。
セリカが傷付くくらいなら、俺が――
「――なら、言うこと聞いてくれる?」
残酷にも、二択はすり替わった。
「セリカを……人質に取ろうってのか」
「そうだよ。まあその子がどこにいるかは、これからキミに同じ方法で訊かないといけないけどね」
「ふざ、けんな……」
「もちろん、キミが従ってくれるなら全部ナシにしてあげるよ?」
「――っ! なんでお前、そんな残酷なことできるんだよ!!」
俺の核心を突いた問いに、彼女は清々しいまでに綺麗で歪んだ笑みを湛える。
そして、さも当然のようにこういった。
「だってあたし、あなたのことが欲しいんだもん」
***
そして、現在に至る。
あのあと、俺がどのような選択をしたかは言うまでもない。
セリカを守るため、ひいては自己保身のため。
俺は、自分を捨ててしまった。
突きつけられた選択肢を前に、成す術がなかったのだ。
「いい子いい子。ほら、お腹空いてるでしょ? 沢山食べて?」
俺の自制心はみるみるうちに消え失せ、少女の言葉にだけ従順になっていく。
彼女の差し出した肉を、無心で貪り食う。
意思も感情も、そこには存在しない。
「
彼女に言われるままに、ただ、食った。
最悪の味がした。
(セリカ……ごめんな)
俺は、お前を守るためにこうするしかなかった。
たとえ俺が、本当の意味で俺じゃなくなっても。
「アルク・キルシュネライト……キミはもう、あたしのもの」
そうだ。
俺は、堕ちた。
彼女に、堕とされた。
「これからキミは、あたしの
ごめん、セリカ。
俺はもう、戻れない。
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