第12話 とある日の、朝
日が昇ったばかりの、朝。
雀が何度も
清浄で透明な空気に乗って、軽やかな女の歌声が流れてきた。
「――がんちゅうこしん、あんちんをえんことを、つとみてごようれいしんにねがいたてまつる」
沙夜が、『壺』と呼ばれる部屋の前の小さな庭を臨みながら、朗々と何かの文言を発している。歌のようであり、呪文のようであり。耳に入っても意味を捉えることができない不思議な言の葉の数々は、それでも心地よい。
沙夜の後ろで部屋を整えている侍女のすずが、微笑む。
「不思議な歌でございますね」
「うん。意味は分からないんだけど、ばあばと住んでいた時は毎朝歌っていたの」
「左様ですか。なにやら背筋が伸びて力が入るような感じがいたします」
「そうなの。元気が出るでしょう?」
クスクスと笑い合いながら、衣服を整え、髪を整える。
手間暇をかけて、一日をよりよく過ごせるように身支度をするのも、後宮に住む者たちの仕事だ。
今日の沙夜は、手紙を書くことから始めることにした。昨日来なかった魅侶玖を心配してのことである。文机に
「ほんとうに、
「そうかしら? 確かに教えられた歌や遊びは、ちょっと変わっていたわ」
「ええ。それに、文字も」
「文字?」
「はい。読み書きができるのは、お貴族様やお役人に限られるのですよ」
「え……」
筆を硯に入れかけていた沙夜は、その動きを止める。
「どちらでお勉強をなさったのか。お聞きしたかったですわね」
博識で、穏やかで、何を聞いても答えてくれた。
丁寧に暮らし、太陽と風の向き、夜空の月や星々に至るまで、目を向け観察することを教わった。
「ばあば……」
きゅうう、と心の臓が絞まる感覚とともに、目頭が熱く潤む。
余計なことを、と焦るすずは畳に額を付け深く頭を下げた。
「っわたくしったら……大変申し訳ございません……!」
「いいの、いいのよ」
教わったことは数知れずあり、そして最後は自分を守って逝ってしまった。
沙夜は祖母を心から尊敬し、そのように在りたいと願っている。
「ありがとう、すず。ばあばはすごい人なのだと知れたわ」
「夜宮様……」
「これからも、気づいたことがあったら遠慮なく言って。きっと、私が知らないことがまだまだたくさんあるもの。さ、ものぐさ皇子に、なんて書こうかしら?」
務めて明るい声を出す沙夜に、すずは再び深く頭を下げてから――何かお歌を一句送られてはと微笑んだ。
「うげえー! 苦手!」
「まあ!」
その声に驚いたか、雀が、連れ立って羽ばたいていく。
チュチュチュ! バサバサバサ……
「あらら。驚かせてしまいましたかね。ふふ」
「!?」
ぴたりと手を止め、耳に全神経を集中させる。
ヒョウ、ヒョウ。
ヒョウ、ヒョウ。
不思議な生き物の声が――聞こえた気がする。
「夜宮様?」
「すず……今、変な鳴き声しなかった?」
「え?」
きょとりとするすずの一方、沙夜は眉根を寄せる。
「ばあばが言ってたやつかな……虫の知らせって知っている?」
「さあ。あいにく聞いたことはございませんが」
「なんとなく、嫌な予感がするってこと。大体、悪い知らせなの」
筆を置くと、沙夜はおもむろに
「夜宮様!?」
「すず。今からお守りを書いて渡すから、絶対肌身離さず持ち歩いてね」
「……それもまたおばあさまの」
「ええ。私の嫌な予感の鋭さは、ばあばゆずりなの。だから」
「はい。かしこまりました」
真剣に文机に向かって筆を動かす沙夜の横顔は真剣だ。だからすずも、それをからかったりなどしない。
しゅさ、しゅさ。
一心不乱に筆を動かす、沙夜の袖の擦れる音だけが朝の清廉な空気に響く。
すずは黙ってその音に耳をそばだて、そして聞こえるか聞こえないかの呟きを漏らす。
「なんと不思議なお方……」
目にも心もちにも濁ったものが一切ない主人を、綺麗に座った侍女がじっと見つめている。
ドロドロとした権力闘争や、覇権を誇示すべくイヤミを応酬する女どもがひしめく、後宮の端。
武家筋から推挙され
だから『夜宮の侍女』として指名されたことが、まるで牢獄行きであるかのような扱いだったことは、話していないし話すつもりもない。
ところがどうだろう。
更衣という高い身分でもって、女官に心を配る女房がいるなどとは、思ってもいなかった。
第一皇子の魅侶玖は武骨で、女性にも権力にもまったく興味がないと噂されていた。皇子の一声で突然やってきた元平民であるのが夜宮だ。当然、紫電二位の推挙以外、何の後ろ盾もない。
すずは、
なぜなら――
「できた! 久しぶりに描いたから、下手だけど。これね、護身のお札っていうんだよ」
「護身のお札?」
「うん。これを持っているとね、山に入っても、熊とかに襲われないんだ」
「くま!?」
「怖いんだよ~大きくて。速いし! ガオーッってくるんだよ」
沙夜はキラキラした目で振り返り、すずに向かって両手を挙げ、無邪気に大口を開けてみせる。どうやら熊の真似らしかった。
「まあ! うふふふふ。それはそれは」
「ほんとなんだからね!」
辛い境遇を経験しても、こうして人を思いやれる沙夜の姿を目の当たりにしてきたからだ。
短冊の大きさの紙には、不思議な記号と文字が書いてあり、全く読めなかったが。
「ありがたく、ちょうだいいたします」
大切に折りたたんで、
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