第10話 後宮の、洗礼ありて



「ほぉ。噂にたがわず小汚い娘よの」


 いつも通り尚侍ないしのかみを受けた後、沙夜が自室である夜宮よるのみやへ向かって回廊を歩いていると、真正面から豪華絢爛ごうかけんらんひとえ姿の女性が現れた。背後に何人もの女官を付き従えていることから、現在の後宮の頂点に君臨している第二皇子の母親であることは、すぐに分かる。

 

 凝った作りの金のかんざしが、日光を反射してギラギラしている。それを目にした者の心をざわつかせるのが、このお方の手法なのだろうかと考えつつ――

 

「……」


 もちろん沙夜は端に寄り、立ったまま深々と頭を下げた。

 

 小汚いと言われたが、今は手入れの行き届いた衣服を身に着けている。

 ただの嫌がらせだろう、負けるもんか、と下腹に力を入れる。


「これ。おもてを上げよ」

 

 投げられた言葉に従い、沙夜が目を伏せたまま顔を上げると、畳んだ檜扇ひおうぎの先で顎を上げさせられた。親子して、やることがほとんど一緒だな! と呆れが生じたのを悟らせないよう、奥歯を噛みしめて飲み込む。


「その器量で、どうやって龍樹りゅうじゅをたぶらかしたんじゃ?」

「……清宮きよみやのお方様。わたくしごときが、龍樹殿下の御目おんめかなったなどと。滅相めっそうもございません」


 亡き皇帝の側妃である清姫きよひめは、容姿端麗ようしたんれいであるもののその性根は『清い』からは

 

 金遣いの荒さ、気性の荒さ、気位の高さ。

 

 どれもこれも皇妃に次ぐ『中宮ちゅうぐう』という地位に甘んじた要因であるが、本人は決して認めず、愚闇曰く「変わらぬまま後宮に君臨している」。もちろん、自身の息子を皇帝に据えようと動いているらしい。

 

 ちなみに魅侶玖みろくの母である皇妃は十四年前、魅侶玖が七歳の折、病で亡くなっている。


「そなたの部屋に行ったのは事実じゃろ?」

「迷われたのではと」


 す、と檜扇を下げ、冷めた目を向けられたので再び沙夜は頭を下げた。

 喧嘩は買わないと分かってくれただろうか、とじっとしていると――空気が動いて、白粉おしろいの香りを感じた。

 

「ばちいん!」

  

 沙夜の眼前に、いくつもの星が散る。

 頬が焼けたように熱くなり、自然と手を添えた。


 

「っ……」

「わらわの問いにまともに答えられぬ罰じゃ」


 忌々いまいましげに言った後で、ぱちん! と檜扇を鳴らして閉じる音が、回廊に響き渡る。


 頬を横殴りにされた沙夜は、それから誰かに肩を押されて転ばされた。裾がはだけ、白い脚が露わになった姿を見て、女官たちが侮蔑ぶべつの失笑を漏らす。

 何が起こった? と目だけで周囲を窺うと、乱れた黒髪の隙間から下卑げびた笑いの尚侍ないしのかみが見えた。

 なるほど、清宮と遭遇するようにはかったのは彼女かと腑に落ち――心を整えるため深く静かに息を吐く。

 

 清宮は威圧的するように上から睨みながら、無防備に横たわる沙夜の足首をぎりりと踏んだ。痛みで肩が跳ねたのを見て一層力をこめ、かかとを浮かせてぐりぐりと踏みつける。


 殺気を発している護衛たちに、沙夜は倒れた姿勢のまま無言で動くなと訴えていた。

 愚闇は、暴れそうになる玖狼に覆いかぶさり、体ごと押さえている。全員に襲い掛かる勢いで犬歯を見せつけ「グルル、バウアウッ」と吼え続けているからだ。


「そこな隠密。その下品で見苦しいケモノはなんじゃ。飼うのを許した覚えはないぞ。捨てて来やれ」


 言い捨てて去る清宮を、沙夜は無言で見送るしかできない。痛む足を引きずり、這いつくばるようにして座礼する。

 女官たちも次々に捨て台詞を吐きながら、これみよがしに足首、手首、手の甲を踏んでいく。酷い者は、横腹を蹴っていく。


「汚らしい犬だこと」

「下品よの」

「こわや、こわや」


 沙夜は、体の痛みよりも絶望感でいっぱいだった。



(玖狼、捨てろって……もう、一緒にいられないの? なぜまた、私から奪うの?)



 座礼の姿勢のまま、ぴくりとも動かず一方的な暴力にさらされるがままで居た。

 皆が去った後で、ようやく愚闇と玖狼が駆け寄る。


「夜宮様!」

「きゅーん」

「だ、いじょうぶよ」

「くそ……オイラが居ながら……」


 後宮のあるじに、一介の隠密が逆らえるわけがない。

 

「愚闇、気にしないで。それより玖狼のこと」

「っ、捨てさせなどしません。ご安心を」

「……分かったわ」

 


 この出来事は、沙夜の心に深い傷を作った。




 ◇




 その夜、いつもなら訪れるはずの魅侶玖は、姿を見せなかった。文も、来ない。

 だからか、恐ろしい夢を見た

 


 どこか分からない、真っ暗で広い場所を上から眺めている。


 見上げるほどに赤くて大きな門が、向こう側へ戸の開いた状態で宙に浮いているのをぼんやりと眺めている。門の奥の闇からじめりとした嫌な空気が、黒紫の煙とともにこちらへ流れてきている。


 門の前で泣き叫ぶ、幼い女の子が目に入った。

 その手のひらに、青く輝く玉のようなものを握っていた。


「や!」


 いやいやとかぶりを振る幼女に、彼女の母親――顔は影になって見えないが母だと認識している――は、優しく何かを諭しながら頭を撫でている。


「たのむ。望みを託せるのは、おまえしかいないのだ」


 

 これは、別れだ。しかも、二度と会えないかもしれない。

 

 

 直感した幼女は、絶望を映したかのような瞳で、泣くしかできない。


「すまん」


 母親の腰を抱いて寄り添い、謝る父親。やはり顔は見えない。

 


 それからふたりの大人は、泣き叫ぶ幼女を振り返ることなく門の中へと歩いていき、向こう側から扉をギギギと閉じた。

 黒い空間はまばゆい光に包まれ、何の変哲もない光景に変わる。

 

 門から流れ出ていた黒紫の煙は一か所に集まり、モワモワと何かを形作っていく。やがて煙はふさふさとした毛皮のようになり、四本の足を地に付けたかと思うと、どこかへ颯爽さっそうと走り去っていった。


 

 一人残された、ひたすら泣き叫ぶ幼女を、背後から体ごと包んでくれる存在がある。


「なかないで」


 小さな肩にかかるのは灰色の長い髪だ。

 柔らかな声で頭上のは言う。


「ぼくのかみと、かかのかみであんだをあげる。これがきみをまもるから」


 左手首に白と黒の紐で編まれたものを結ぶと、青い玉が胸の中に吸い込まれるようにして、彼女の手の中からすーっと消えた。

 


(苦しい! 嫌よっ! 思い出したくないっ!)



 寝ているはずの沙夜は、目を閉じたまま激しくかぶりを振っている。

 


 ――と、また優しい声が耳に流れ込んできた。

 


「わるいゆめは、ぼくが、たべてあげる」



(ハク?)




 ◇

 



 沙夜は、飛び起きた。

 心臓が、バクバク跳ねている。

 

 隣で丸くなっていた玖狼も同時に飛び起きたようで、心配そうに首を傾げて沙夜を見つめている。

 周囲を見回すと、いつもの自室の布団の上だった。

 障子窓には日光が当たっていて、御帳みちょうと呼ばれる衝立ついたて越しにも眩しい。

 


 静かな朝だ。


 

(一体わたしは、



 動悸がやまず、肩で激しく呼吸をしていると、愚闇が文字通り飛んできたのが分かる。

 

「沙夜、大丈夫か!?」


 枕元に片膝を突く彼がばさりと翼を畳むと、黒い大きな羽根が宙を舞う。

 心配そうな忍装束の黒目がちの瞳を見て、沙夜はかろうじて頷いた。

 

「ええ……悪い夢を見た気がする……全然覚えては、いないのだけれど……」

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