第9話 夜に、心を寄せて
音のない、静かな夜。
なんとなく眠れない沙夜は、縫物に
「沙夜」
ふと、
「げ」
わずかな呟きを遮るものは、
「? 都合が悪いか?」
「わ、るくはないです。どうぞ」
助けを求めるようにすずを見やるが、にっこりと微笑んでから丁寧な座礼をした後、引っ込んでしまった。
男性が、夜も
(ええええちょっとまって! 心の準備とか体の準備とか……いやいや、嫌だし! すず、行かないでよー!)
などとグルグル考えていると、戸惑いが魅侶玖にも伝わったようで、苦笑されてしまった。
「ああ、
「ひ! え? ほんと!? ですか」
「俺がわざわざ
「ああぁ~よかった~」
大げさに息を吐きつつ、座礼で魅侶玖を迎える。
もう顔を見られているので、隠すなど面倒なことはしないし、それを
「……すまんが、朝までいるぞ」
魅侶玖はどかりと
「はい。わかりました」
縫物を
とと、と玖狼が寄って来て、沙夜の膝に横から顎と前足を乗せ耳を伏せる。それを見た魅侶玖は、苦笑いしながら言う。
「沙夜」
「なんです?」
「だいじないか」
「っ。ごほん。はい」
(眉間に深いしわを寄せたまま、気遣わないで欲しい。違和感がすごいから!)
控えめに魅侶玖の顔色を窺うと、目の下に隈があることに気づいた。忙しいのだろうかと、沙夜は玖狼の頭を撫でながら心を落ち着ける。
「あの……」
「なんだ」
「質問があるのですが」
「言ってみろ」
薄暗い室内で、顔の半分以上が陰っている魅侶玖の本心は、沙夜には読めない。
「なぜ、わたくしのような平民のお召し抱えを? あやかしを消したからでしょうか。わたくしは何も知りませんが」
「……そうだな。きちんと話をしなければと思っていた。沙夜には聞かせるべきだと俺は思う。秘密は守れるか?」
「守るも何も。天涯孤独の身ですし、皇都に知り合いはおりません。ご存じでは?」
(先日、左大臣九条様が「調べた後で報告を」と言っていたでしょ!)
暗に抗議を
「……
この国の民なら、誰もが知っている。
親兄弟や村人から口頭で伝えられ、皇帝を敬わなければならないと教えられる、
「はい。世に溢れているあやかしから人々を
「そうだ。代々皇帝がその宝剣を
「が?」
「皇帝は継承の儀をしないままに
「っ!!」
「事態は深刻だ。しかし皇城のやつらは、次の皇帝を誰にするかで争っている。誰も民の命のことなど考えておらん」
ぎり、と胡坐をかいた太ももの上で、魅侶玖の拳が白くなる。
「皇都には皇雅軍がいるが、他の村々は無事で済むまい」
「ええ。わたくしの村も、あやかしに食われました」
「聞いた……すまない」
あなたが謝っても! と叫びたかったのを、かろうじて沙夜は
魅侶玖は座ったままにじり寄り、震える沙夜の背を遠慮がちに撫で、袖で涙を拭く。地味な黒い
「本音を言えば、今までの俺は皇帝の座に興味がなかった。だが、即位することで皆が救われるのならとっ……」
(ああ。この人も、苦しんでいると分かってしまったなあ。)
それから沙夜は、無理やりに色々飲み込む。飲み込んで、鼻をすすって、彼のはしばみ色の目を見つめる。
「殿下は離宮で、何をしていたのですか?」
「手がかりを探していた」
「手がかり?」
「国宝の、手がかりだ」
魅侶玖は、眉間に深いしわを寄せてから天井を仰ぐ。
「
「けんぞく」
「そうだ。代々の皇帝は、もののけと呼ばれるものたちから力を借りてきた。眷属として盟約を結んで」
「盟約」
「ギーもそのうちの一人だ。皇帝が不在となり彼との盟約は切れたが、俺が頼み込んで猶予をもらっている。次の皇帝即位まで留まる条件が、青剣の眷属を探し出すことなんだ」
「そうだったんですね」
「俺は、その手がかりが沙夜にあると思って、召し抱えた」
「へ!?」
沙夜が思わず
玖狼が心配そうな顔をするので、大丈夫というように沙夜が頭を撫でると、尻尾が一度だけ持ち上がって、またぱたりと畳に落ちた。
「あやかしを消したからですか」
「それもあるが……そなたの目の色が」
魅侶玖が唐突に、身を乗り出して覗いてくることに、沙夜は戸惑った。
(そういえば、背を撫でられるほど近くにいる――)
「綺麗な、瑠璃色だ」
どくん! と心臓が跳ねる。
「瑠璃……黒では……?」
「はじめは黒だった。いつからか、瑠璃になった」
ハクが言っていたことを思い出す。沙夜の中のなにかが、起きたばかりだと。
「沙夜。巻き込んだことを許せとは言わない。だが今の俺にとってはどんなことでも、国のためならば」
「……
魅侶玖の
彼はそんな沙夜を
「会ったそうだな。何を言われた?」
「わたくしごときが召し抱えられた、その
「何と答えたんだ」
「汚れた足を拭いたから」
「ぶっは!」
盛大に吹かれるとは思っていなかった沙夜は、目を丸くして彼を見つめた。
「ぶくくく、あははは」
挙句、お腹をよじる勢いで爆笑し始めるのだから、どうしたら良いのか分からない。
玖狼が立ち上がって魅侶玖の頬を舐めると、わしゃわしゃと撫でてそれに応える。犬と楽しそうに
「殿下!?」
「ああおかしい! その時の、奴の顔を見たかった!」
「きょとんとしてましたね」
「ぶっ! ははは! くくくく」
「んもー、そんなに笑わなくても」
「すまんすまん。事実なのもおかしくてな」
「え? 事実だったんです?」
「ああ」
魅侶玖は玖狼の頭をくしくしと撫でながら、何でもないかのように言う。
「手がかりなどと言ったがな。俺になんの見返りも求めず、優しくする人間がまだいたことが……純粋に嬉しかったのだ」
「殿下……」
「あーあ。なんだか眠くなったぞ、沙夜」
ぶっきらぼうな照れ隠しには、気づかないフリをする。
「そうですね。お布団敷いてもらいましょうか」
「いいのか? 俺の隣で寝るはめになるぞ」
「玖狼がいますから」
「わん!」
わはは! と魅侶玖は満面の笑みで黒犬をまた撫でる。
「頼もしい護衛だ!」
玖狼が目をキラキラさせて尻尾を振るのを、沙夜は穏やかな気持ちで見つめていた。
辛いことはたくさんあった。どうにもならない苦しみは、一生抱えて生きていかねばならない。
だが、第一皇子は国を護ろうとしている。それが分かっただけで、ほんの少しだけ心が軽くなったような気がした。訪ねて来てくれた魅侶玖にそっと感謝をする。
「殿下。どうぞこちらへ」
続き部屋にある
「うむ」
「ありがとう、愚闇」
脱いだ
間に玖狼を挟んで
翌朝、沙夜が目覚める前に去っていた魅侶玖は、
『玖狼のお陰で、よく眠れた』
沙夜は、太くて力強い文字を読みながら、黒犬の頭を撫でる。照れ隠しと感謝が含まれたそのぶっきらぼうで短い文を、何度も何度も読んだ。
「さすが玖狼ね」
「おん!」
それから魅侶玖は、離宮の時のように、一日おきに夜宮に通うようになった。
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