第2話

「花の香りがする......」


宇宙服に身を包んだサラが呟く。目の前には真っ赤だったはずの火星の大地が、一面の花畑となって広がっていた。


ヘルメットを脱いだ隊員たちは、砂埃の代わりに甘美な花の香りを肺いっぱいに吸い込む。現実とは思えない光景に、皆圧倒されていた。


「どうなってるんだ、これは......」


リチャードが信じられないという顔で首を振る。


「さあ......とにかくコロニーに急ぎましょう」


サラは先を急いだ。婚約者のジョンが無事でいるか、今は早く確かめたい一心だった。


一行は花畑の中の道を辿り、コロニーへ向かう。一面に広がる色とりどりの花は、時折吹く風になびき、まるで生きているかのようだ。


「火星にこんな植物が育つなんて聞いたことがない。一体何が起きているんだ?」


隊員の一人が不安げに呟く。サラも同感だった。


やがて、一行はコロニーの外れにある温室が見えてきた。だが、そこで彼らを出迎えたのは、想像を絶する光景だった。


「な、なんだこれは......!」


サラが息を呑む。コロニーの住民たちが温室の外に出て、花畑の中を歩き回っているではないか。しかも皆、宇宙服を着ておらず、普段着姿のまま花の中をのんびりと散策しているのだ。


「ジョン!」


人混みの中にジョンの姿を見つけ、サラは駆け寄った。ジョンはゆったりとした表情で、花を摘んでいる。


「ジョン、良かった......無事だったのね! いったい何があったの?」


サラが声をかけると、ジョンはゆっくりと振り返った。だが、そこにあったのは恍惚とした表情。いつもの彼らしからぬ、陶酔したような笑みを浮かべている。


「サラ、君も来たんだ。ちょうど良いタイミングだよ。ここは素晴らしいんだ。『緑の楽園』というべきかな」


「ジョン......? どういうこと? どうしてみんな宇宙服も着けずに外を歩き回ってるの?」


「宇宙服なんていらないんだ。ここの空気は汚れていない。花の香りは私たちを守ってくれるから」


ジョンの言葉に、サラは目を見張った。火星の大気は人間にとって有毒なはずだ。だが、コロニーの人々は平然と花畑を散歩している。


「そんな......どういうこと? 具合でも悪いの?」


「いいや、ここにいれば心も体も健康になれるんだ。君も、その宇宙服を脱いでごらん。花々が歓迎してくれるから」


ジョンはサラの腕を取ろうとする。だが、サラは慌てて身を引いた。


「ちょっと待って。わけが分からないわ。とにかくみんなを集めて、どういう状況なのか説明して欲しいの」


「説明など必要ないさ。君も、ここにいれば分かるはずだ。花々の美しさと優しさが、私たちを呼んでいるんだよ」


ジョンの虚ろな瞳を見て、サラは背筋が凍る思いだった。コロニーの異変は、人々の心も蝕んでいるようだ。


サラは顔を上げ、仲間に目配せをする。こうして、人々を集め説得を試みることにしたのだ。だが、花の甘い香りは、救援隊にも影響を及ぼし始めていた。


「ねえ、ここにいると落ち着くわ。まるで母親に抱かれているような、安らぎを感じる......」


女性隊員の一人が、うっとりとした表情で呟く。


「俺も、この惑星に残りたいと思ってきたよ。任務だって忘れられそうだ」


男性隊員も、虚ろな目をしている。


「みんな、しっかりして! これは任務よ!」


サラは必死になって叫ぶ。だが、彼女の声は風に散っていく。生い茂る花々が、何もかもを飲み込んでいくようだった。


それからの数日間、サラは必死になって説得を試みた。だが、ジョンを含むコロニーの人々は、まるで花に心を奪われたかのように、地球への帰還を拒否し続ける。


そんなある夜、サラは不思議な夢を見た。一面の花畑の中で、ジョンと手を取り合って歩いている。花の芳香に包まれ、どこまでも歩き続ける。そして、いつしか二人とも花の一部になっていくのだ。


目覚めたサラは、夢の余韻に浸っていた。不思議と怖いとは思わない。むしろ、夢の中であったような安らぎに包まれたい気持ちすら覚えた。


いけない。私はなんて思っているの。


サラは頭を振って、現実に引き戻される。救援隊の期限が迫る中、メンバーの殆どが地球への帰還を望まなくなっていた。このままでは、彼女一人が置いていかれてしまう。


窓の外では、夜風に花々が揺れている。まるで、サラを誘うかのように。


「ジョンのそばにいたい。ここにいれば、私たちはいつまでも一緒にいられる......」


サラはふらふらと立ち上がった。いけないと理性は訴えるが、体は自然と外へ向かう。花の香りが、優しく彼女を包み込む。


かくして、気がつけば、サラは大勢の仲間とともに、ジョンの手を取って花畑の中を歩いていた。もう地球への帰還など、どうでも良いことに思えた。


ここが、彼女の居場所なのだから。

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